『三月の5日間』は知っている ――九龍ジョーの見たチェルフィッチュ20年史
岡田が知っていること、知らないこと
今年6月、新しく銀座にオープンしたGINZA SIXの観世能学堂で、観世流の若手シテ方能楽師、谷本健吾、坂口貴信、川口晃平による「三人の会」第2回公演が開催された。同会は彼らを囃子方として支える大鼓・亀井広忠の大車輪の活躍も含めて、いま最もスリリングな能公演の一つである。その見所で岡田利規と会った。坂口がシテを務めた『海士』に興奮したという岡田は、坂口のことを「あの人は何かを知っている」「舞台上であなたはいったい何を知っているのか? と問い詰めたい」と独特な言い回しで絶賛していた。おそらく坂口貴信は「何も知らない」だろう。そこが能楽師のすごいところなのだ。
2004年、初めて観たチェルフィッチュに衝撃を受けた私も、まさしく同じようなことを思った。
あなたたちはいったい何を知っているのか?
『労苦の終わり』という、若いカップルの「結婚」をテーマにした作品だった。劇場は横浜STスポット。入り口で売られた缶ビールをちびちびやりながら、緊張感と倦怠感の入り交じった不思議な時間を味わった。うっすらビーチボーイズの『ペット・サウンズ』も流れていた気がする。いままで体験したことのない舞台だった。
実はその時点で岡田利規が「知っていた」ことについては、岡田の演劇論およびチェルフィッチュの足跡をまとめた書籍『遡行 変形する演劇論』に詳しい。あらかじめ言っておくと、私は同書の担当編集者でもある。ただ、その本を読んでもなお、彼らが何を知っていたのか? と想像する余地は残されるだろう。岡田にもわからないことだらけなのだ。すべてを知ってしまっていたら、作品はただの答え合わせにすぎない。
誰とでも交換可能な自分という存在
2000年、自宅ワンルームにサンガツの「Five Days」が流れたときの解放感を覚えている。あれをなんと喩えよう。きみとぼくの半径5メートルのセカイで温々としていた90年代、そろそろ窓を開けようぜなんつって吹き込んできた風を心地よく感じていた。
結局、私は『三月の5日間』の初演に間に合っていない。いまのように公演の感想がSNSで瞬時に流れてくる時代ではなかった。個人ブログやえんぺ(えんげきのぺーじ)などに書き込まれたレビューが頼りだった。実際、そのような経路で、『三月の5日間』の評判は瞬く間に小劇場シーンへと広がっていった。
そして、『労苦の終わり』で初チェルフィッチュ。次に観たのが『ポスト*労苦の終わり』だ。『労苦の終わり』のリクリエーション版で、劇場は同じくSTスポットだった。今度はビーチボーイズではなく、ソニック・ユースやラルトラが流れていた。タイトルも音楽も、ポストロック。音楽に関するこうした言葉遊びは、その後のチェルフィッチュ作品でもよく見られる。もっと言えば、発想の起点が音楽にあることもしばし。
俗に「チェルフィッチュっぽさ」と(一義的に)言われる演劇スタイルは、この00年代前半のSTスポット期を通じて醸成された。2001年の『彼等の希望に瞠れ』で「だらだらとした要領の得ない口語」と「身体のノイズ」(直接、台詞には結びつかない意味のない動き)が導入され、2003年の『マリファナの害について』では、俳優の「主格の移行」が導入された。
「主格の移行」とは、例えば人物Aを演じる俳優が人物Bから聞いた話を喋っているうちに、Aを演じていたはずがいつのまにかBに移行しているように観客の目に映る、というふうなやり方のこと。いま思えば、能の「仕方語り」や歌舞伎の「仕方話」などの構造にも近い。もちろん当時の私はそんなことを思うべくもなく、なんだか映画の撮影シーンみたいだとか、あるいはバイトの現場みたいだ、なんてことを思っていた。誰とでも交換可能な役割。それはニートと非正規雇用の現場を行ったり来たりしていた当時の私にとって、妙にしっくりくる演劇だった。
2001年9月11日を経て、“2003年の三月の5日間”を観た2005年
2005年、ついに『三月の5日間』を観る。
スーパーデラックスでの再演である。スーパーデラックスは六本木のライブハウスで、私はマヘル・シャラル・ハシュ・バズのようなエクスペリメンタルなミュージシャンのライブをよく観に行っていた。もちろん『三月の5日間』という物語が着想された場所でもある。公演中は、タイトルの由来となったサンガツ「Five Days」のライブ演奏も行われた。
かつて吉祥寺のライブハウス、スターパインズカフェのスタッフでもあったプリコグ代表の中村茜は、「ライブやクラブイベントに来るような人たちにもっと演劇を観てほしい」と思い、フライヤーのデザインなどにおいてもそういった層へのアピールを第一に考えていたという。実際、この頃からチェルフィッチュは、小劇場シーンの枠を越え、音楽や映画、アートなど、他ジャンルのオーディエンスからも注目を集め始めていた。私の観劇した回では、文芸誌『新潮』編集長の矢野優と岡田の対談トークもあった。おそらく岡田が『三月の5日間』の小説版執筆にとりかかっていたこととも関係あったのだろう。
『三月の5日間』では、2003年、アメリカがイラク空爆を開始した日を挟む5日間における、数組の若者たちの行動が語られる。例えば、「渋谷のラブホテルに籠もってセックスに耽る男女」という設定には、『二十四時間の情事』のような映画が描いた、社会と個人の緊張関係を想起することも可能だろう。だが、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ以降、どこかボタンを間違えてしまったような妙な気分の中で、私はもう少し捉えどころのない戦争とのキョリ感を『三月の5日間』から受けとり、それをとてもリアルだと思った。
「新時代の『日本的経営』」報告書が導いたフリーターという労働者
続いてニュータウンを舞台にした若い夫婦の話である『目的地』、漫画喫茶で働くフリーターたちの話である『エンジョイ』を観た。この時期、岡田利規は、若年層における所得や住まい、非正規雇用といった問題を積極的に題材として取り上げていた。
特に『エンジョイ』では、批評家・杉田俊介の著書『フリーターにとって「自由」とは何か』が参考文献として明示されていた。極端に角度をつけた八百屋舞台をコロコロと転がり落ちていく俳優たちの姿は、私たち若年労働者層の生存そのものを現しているようだ。その斜面は、当時、野宿者を廃除するために新宿駅西口の地下コンコースに設置された「アート作品」の形状も連想させた。そのような演劇が、新宿駅からもほど近い新国立劇場というピカピカで格式ある公共劇場にて上演されるという皮肉にも意味があったと思う。
1995年、日経連が「新時代の『日本的経営』」報告書を発表。それを受け、1999年、派遣労働が全面解禁される。以来、雇用は景気の調整弁としてのフレキシビリティを獲得し、非正規雇用労働者は増える一方だ。「フリーター」という言葉の「フリー」という響き。チェルフィッチュの演劇が持つ「軽やかさ」と「重力」のアンビバレンスに、マルクスの言う「二重の意味での自由」を感じていた。この二重性は、2008年、『フリータイム』という作品で見事に構造化される。
国内から海外へ。小劇場すごろくをひっくり返す。
小劇場すごろく的に、大きな劇場や商業演劇へステップアップしていくという道もあったのかもしれない。でも、結果として、チェルフィッチュはそうはならなかった。
いわゆるプロデュース公演的な作品もあったが、岡田にとってあまり芳しくない成果に終わったことは、端からもわかった。が、そうしたことよりも、もっと単純に、すごろくの盤面をひっくり返してみれば、そこには「海外のオーディエンスを増やす」という選択肢が隠れていたとも言える。
スーパーデラックスで『三月の5日間』を観劇した国際芸術祭「クンステン・フェスティバル・デザール」のディレクター、クリストフ・スラフマイルダーは、チェルフィッチュに同フェスへの参加を要請。これ以降、岡田はヨーロッパを足がかりに、積極的に海外へと出て行く。
2009年、私はベルリンの劇場・Hebbel Am Uferで『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』を観劇している。ある派遣労働の職場をユーモラスに描いたその作品は、けして日本の特殊な事例としてではなく、現地の観客にもその面白さや切実さが伝わっているように見えた。
いまやチェルフィッチュは、海外の劇場から委嘱を受けて新作を発表する機会も少なくない。例えば、バッハの旋律に乗せてコンビニ労働を描く『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』はドイツのフェスティバルTheater der Weltの委嘱作品だし、野球を題材に日米韓の関係を描いた『God Bless Baseball』は韓国のAsian Arts Theatreの委嘱作品だ。
東日本大震災と東京という地方
ニューヨークの劇団、ピッグアイロン・シアターカンパニーに戯曲を提供したこともある。その作品『ゼロコストハウス』は、ヘンリー・ソローの『森の生活』とともに作家/建築家である坂口恭平の著書『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』がベースとなっており、劇中には「岡田利規」「坂口恭平」という役名の人物も登場する。
2010年、私は編集途中だったその『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』の原稿を岡田にメールしている。深い意味はなく、ただなんとなく岡田なら興味をもってくれそうな気がしたのだ。実際、路上生活の知恵や0円ハウスの合理性を説いたその本の内容は、岡田が準備していたチェルフィッチュ新作『ゾウガメのソニックライフ』のメインテーマ「移住と定住」ともリンクし、岡田は上演時のトークゲストに坂口恭平を迎えた。2011年2月のことだ。
翌3月11日、未曾有の震災が起こり、深刻な原発事故がそれに続いた。東京に住んでいた坂口は故郷の熊本へと移住し、「ゼロセンター」と呼ばれる避難所を立ち上げ、避難者の受け入れを始める。その呼びかけに、最初に応じたのが岡田だった。最終的に岡田は、家族ともに熊本への移住を決める。
こうして、『三月の5日間』の上演100回記念公演は、熊本で開催されることになった。2011年12月、早川倉庫での公演後に行われた記念パーティの席で、岡田はこう挨拶をした。
「首都圏でやることもできました。でも、ぼくたちはそうせずに熊本でやったわけです。今日、公演を観ながら、そうしてよかったと思いました。初めてこの作品が、『日本』のことではなく、『東京』というひとつのローカルを描いているんだということがわかったからです。つまり、東京というたんなる地方の話なんだと。そうぼくには見えて、面白かった」
それを聞いていた隣りの席の坂口恭平が私に耳打ちした。
「オザケンも最近、そんなこと言ってなかったっけ?」
たしかにそうだ。小沢健二の公式サイト「ひふみよ」を改めてチェックしてみると、『東京の街が奏でる』コンサートの告知文にこうあった。
「『東京の街が奏でる』の“東京”は、首都としての東京ではなくて、ローカルな場所としての東京です。ローカルな場所というのは、東京から首都が移転して、大企業の本社が全部引っ越して、その後でも残る東京、みたいな意味です」
とても面白いシンクロだと思った。であれば、むしろ私はその「地方としての東京」にこそ興味があると思った。
ドラマ、キャラクター、そして幽霊へ。
2012年に発表した『現在地』は、劇作家としての岡田に大きな転回をもたらした。「ドラマ」や「キャラクター」の持つ働きがようやくわかった、と岡田は言う。
結果、その後の作品で顕著になったのが、死者=幽霊という存在へのアプローチである。亡霊は自らの来歴を語る。その言葉に観客は耳を傾ける。であれば、岡田が能に関心は持つのはもっともなことだ。
同時に、このことも言っておきたい。昔からチェルフィッチュ作品は、長いモノローグにこそ、その官能性をもっとも滾らせてきた、と。そのこともあってか、私は岡田がさくっと作る(実際にはとても時間と労力をかけているのかもしれないが)一人芝居をこよなく愛している。佐々木幸子の『女優の魂』、稲継美保の『あなたが彼女にしてあげられることは何もない』。ラッパーのSOCCERBOY(現:S/)と組んだ『ポストラップ』もたまらなくセクシーだった。いつか坂口貴信の一人芝居も岡田の演出で観られる日がくるような気がしてならない。いや、ただ、きたら私はうれしい。
新しい『三月の5日間』が知っていること
2017年9月18日、江古田でウンゲツィーファという劇団の公演を観た。男女の2人芝居。劇作家の自宅六畳間が会場となっており、観客は私を入れて5人だった。窓を開けても風は吹いてこない。そんな作品だ。とても面白かった。終わってから知ったのだが、女優のほうは今回のリクリエーション版『三月の5日間』に出演するという。
23歳以下の俳優たち。彼/彼女らはすでに何かを知っていて、でも、それが何なのかを彼/彼女ら自身は知らない。
そして、私も岡田も彼/彼女らもまだ知らない何かを、新しい『三月の5日間』はきっと知っているのだろう。