『三月の5日間』リクリエーション北京公演 アフタートーク スン・シャオシン(劇作家、演出家、批評家)✕ ワン・チョン(劇作家、演出家、Théâtre du Rêve Expérimental 芸術監督)✕ 岡田利規

北京公演の最終日、北京を中心に活動する気鋭の劇作家・演出家ふたりを招いたアフタートークが行われた。日本での公演経験もあり、演劇界とも接点のあるふたりは、中国、北京の演劇状況、社会状況を背景に岡田のリクリエーション作品をどう観たのか。

左から、岡田利規、スン・シャオシン、ワン・チョン

このような芝居が中国で審査を通って上演できるのはとてもすごいこと

司会 :

今日はお集まりいただきましてありがとうございます。『三月の5日間』リクリエーションの海外初公演を北京で催すことができました。今日は公演3回目の千秋楽ということで、特別に日本の現代演劇に詳しいスン・シャオシンさんとワン・チョンさんに来ていただきました。ではまず自己紹介からお願いします。

岡田 :

みなさん、今日は観に来てくださってありがとうございました。この作品のテキストを書き、演出も手がけました岡田です。

スン・シャオシン :

スン・シャオシンと申します。

ワン・チョン :

ワン・チョンと申します。

司会 :

これからまず1時間、岡田さんとゲストのお二方のトークを聞いていただき、それから質問の時間を30分ほどとりたいと思います。

ワン・チョン :

今日のこのお芝居は現代の生活を、または人々の思っていることをとてもリアルに表現していると思います。このような芝居が中国で審査を通って上演できるのはとてもすごいこと。でも、こうした海外の現実を表現した芝居を海外の劇団が演じるのであれば審査が通るかもしれませんが、中国国内の劇団または劇作家の場合は審査が通りにくい。この審査の厳しさも私たちの表現、または創造をある程度制限していると思います。

スン・シャオシン :

私は『God Bless Baseball』という野球の作品をDVDで観ていましたが、今回の『三月の5日間』で、岡田さんの芝居を初めて生で観ました。初日も観たので、今日観るのが2回目なんですけれども、ワンさんと同じくとても素晴らしい作品だと思いました。ワンさんも先ほどおっしゃったように、政治または個人の考え方を作品の中で取り上げていますが、敏感な観客はこれを見てすぐ思いつくことがあると思います。それは中国の現状と言いますか、改革開放の後、私たちは芸術の分野ではむしろ政治の影響をできるだけ取り除くという傾向があるんです。今の若者が政治に無関心で、政治に関心を持つこと自体がダサいと思っている傾向があります。作品の中でデモのシーンがありました。中国でも昔デモがありましたが、残念なことにデモに参加している人が不適切な行為を取ったせいで、人々のデモに対する印象がとても悪くなってしまいました。そういうことをふまえて、個人と政治の関係はとても大事な課題だと思いました。で、私が今とても興味を持っているのは、この現場にいらっしゃっている北京の観客のみなさん、特に若い方の中でこの舞台に出てくるキャラクターを自分だなと感じた観客はどのぐらいいるでしょうか。この若い作品を若い街である北京へ持ってきたかったという話を聞きましたが、若い町というのなら、むしろ北京より上海でこの作品をやったほうがいいんじゃないかと。それについてはどう思いますか。

岡田 :

北京と上海はどう違うんですか。

スン・シャオシン :

『三月の5日間』に出てくるような若者は、上海にはたくさんいると思います。でも北京にそういう人は少ない。上海というのは、中国で一番資本主義の香りが強い町だと思います。『三月の5日間』の初日観劇後、ある評論家の評論を読んだのですが、日本の若者は救いようがない、日本のこの世代の若者は駄目だという評価でした。これはとても北京的な評価だと思いました。

司会 :

上海も審査は厳しいですか? どのような状況ですか。

スン・シャオシン :

審査の問題ではなく、観客のイデオロギーの問題です。あと、とてもおもしろいと思ったのは、ミッフィーという役の女の子は火星に行きたいと言っていましたが、知り合いの上海の女の子には、そういう子がたくさんいます。火星に行きたいというのは、つまり現実から逃げたいということだと思いますが、私の知り合いで逃げたいと思っている人の多くは日本に留学しました。ですから彼、彼女らにとって日本が火星なんだと思います。

中国の若者はこれから日本の若者にように発展していくんじゃないかと思います。

岡田 :

すごいおもしろいです。初日に読んだと仰っていた「この日本の若者は救いようがない」と書かれていた評論はすごい読んでみたいですね。これを書いていた当時、15年くらい前の日本での状況ですが、政治との距離の取り方というか、政治とどういう関係を結べばいいのかよく分からない状態にさせられていて、自分たちが生きてるというのはこういうことじゃないか、というのを書いてた部分が僕の中ではわりと大きかったんですよね。そこから15年経った今、それがどうなってるかっていうのはいろんな見方があるんですけれども、政治的であることがダサいっていう感覚は、日本ではほんの少しだけかもしれないけど、薄れてきているかもしれません。若い人の中でデモや政治的なアクションをとてもファッショナブルにやった人たちが出てきたからなんですけどね。

ワン・チョン :

私は東京に行くことが多いんですけれども、この芝居が見せてくれた若者の状態というのは、私が東京で感じた若者の状態とぴったり合っています。外国人が日本人と触れ合っても、言葉の問題も大きくてなかなか内面的なことを知れないというのはありますが、この芝居の若者は、自分の夢とはなにか、仕事とはなにか、情熱はどこに向いているのか、というようなことが一切わからない。2人の男女は動物のようにただ5日間ずっとヤッて、ご飯を食べたりしていました。彼らはどこから来て、どこに行くのか全然わからない状態です。デモのシーンもありましたが、2人は政治のことや、どうやってこの国、この世界を変えるかみたいな話は全然していなくて、マスクの話ばっかりしていた。それはとても適切だなと思いました。身なりはとてもおしゃれで、体の動きはちょっと変だけど礼儀は正しい、しかし、考えていることや世界との関係はまったく分からないという状態。岡田さんはそれをとても冷静に描いていて、私はすごく好きでした。

岡田 :

ありがとうございます。ワン・チョンさんのその東京の描写、東京の分析は的確ですね。言葉を完全にわかるわけじゃないのにとても正確に見抜いているなと思いました。シャオシンさんも東京に来たことがありますけど、シャオシンさんは東京という町、日本という場所はどういうふうに思われるんですか。聞いてみたいです。

スン・シャオシン :

私の初めての日本は横浜でした。私の故郷である天津にとても似ていると思いました。後で知ったんですが、天津と横浜は姉妹都市で、天津は横浜を真似して建設していたこともあるようです。2回目はフェスティバル・トーキョーに参加して東京に行きました。空港からバスで池袋に直行したのですが、池袋に着いた途端に家に帰りたくなりました。とてもうるさかったんです。去年は京都のフェスティバルに行きました。京都はとても好きです。後で京都から東京に移動したんですが、やっぱり東京はうるさくて帰りたくなった。でもその時の帰りたいという気持ちは、自分の家にというより京都に帰りたいと思っていたんです。自分は地方都市のほうが好きなんだなと気づきました。ワンさんは日本に3ヶ月ほど滞在していましたが、私が日本に行く時は長くても2週間程度。日本語がわからないせいでいろいろな壁があって、深い交流はできませんでした。日本には中国の若者が望んでいる生活の全てがありました。中国の若者にとって、ちょっと高いな、ちょっと贅沢だなという消費も日本人にとっては日常です。中国の若者はこれから日本の若者にように発展していくんじゃないかと思います。岡田さんも私の作品をご覧になったことがあると思いますが、私の表現は、中国の若者は実際にそこにいるけど、本当にそこで生活しているわけではなく火星もしくは日本に住んでいるということをしているのだと思っています。

スン・シャオシン『Here Is the Message You Asked For... Don't Tell Anyone Else ;-)』2017
京都芸術劇場 春秋座
撮影:松見拓也 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局
岡田 :

去年シャオシンさんの作品を東京で観ることができたんですけれども、それはまさにそういう作品でした(※1)。つまり中国で暮らしながら、インターネットの世界で日本的なかわいい文化に囲まれ、癒されながらネットの世界で生きているけども、それはつまり現実世界の過酷さの裏返しであるというようなことでした。僕は非常に印象深く見たことがありました。僕の世代の文化じゃないことも大きいと思うんですけど、僕はそういうかわいい文化に全然親近感がないんですね。だけどそのシャオシンさんの作品を通して、例えばその文化がどのような働きを人々に与えてるのかというひとつの例を見せてもらえた気がしたんです。それによって少しだけそうした文化に興味を持つことができるようになりました。だからってネットで動画をいっぱい見るようなことはしていないんですけれど、作品を見た時、例えばそうした若い人たちが日本にもいるはずなのに、なぜ僕はそういう日本の人たちに対して親近感なり、なんらかの寄り添いたい気持ちみたいなものを持つことができなかったんだろうって思ったんです。そこにはなにか自分が属している文化に対する、近しいがゆえの憎悪というか嫌悪感、みたいな気持ちも関係していると思います。自分の属している文化の外のものを見ることが人間に何を引き起こすか、ってものすごく様々なことがあると思いますけども、それってやっぱり本当におもしろいなってその時に思いました。

東京に対する批判的な気持ちについては、彼らとおそらく共有していると思います。

ワン・チョン :

現代日本の演劇祭で、例えば鈴木忠志さんは地方で自分の演劇を教えています。舞踊家の田中泯さんも地方で自分の舞踊団を創立しました。岡田さんは福島の事故が起きて以降、東京を離れて熊本に移られましたが、熊本での生活はどんな感じですか。それは岡田さんの作品にどのような影響を与えていますか。

岡田 :

鈴木さんや田中さんは東京を離れた地方に自分の創造の拠点を作って、そこで生活をしながら芸術行為をしているんですね。僕は熊本に引っ越しましたが、そこを拠点に活動しているわけではないです。それは本当にプライベートなことで、家族との生活をするためだけに熊本にいるんです。だから創造的な活動をする時には首都圏、大都市に行ってその活動をしていて、そこは鈴木さん、田中さんとは全然違います。ただ東京に対する批判的な気持ちについては、彼らとおそらく共有していると思います。シャオシンさんが思ったように、やっぱり東京ってうるさい。僕が熊本に行った直接のきっかけは原発事故です。けれども、東京圏にいることによるストレスは、以前から感じていましたから、福島の事故だけが移住の理由というわけではなかったという気がします。そういう意味では、福島の事故は前々から思っていたことの引き金を引いた感じはあります。日本は政治も経済も文化も全ての中心が東京にあるという仕組みの国で、芸術も基本的には東京にいないと仕事にならないんですが、僕が地方に移ることができたひとつには、当時から仕事の中心が必ずしも東京ではなかったということがありました。海外にいることも多いので、海どこに住んでいてもそこにいないことが多いことには変わりがない。そうじゃなかったら東京を離れるのは、難しかったかもしれません。地方と言っても中国と比べると日本は本当に小さい国なので、わりとすぐ行けるんですが。

舞台作品は正しいことを観客に学ばせるものだと考えているんだと思います。

司会 :

私はゲストのお二人のように日本の演劇を知りません。今回の作品で初めてこのような言葉の使い方や体の動きを見て、衝撃を受けました。ゲストのお二人はこれをどのように考えていますか。そして岡田さんはこれをどのように作ったのか教えてください。私としては、これは日本のドラマとかアニメとかに似ていて、とても中二病的な感じがあると思いました。

スン・シャオシン :

初めて岡田さんの作品を拝見したのはDVDなんですが、とても興奮しました。これは私の身体だと思いました。私は大学の演劇学科を出ましたが、その学科を出た役者さんの体はあまり好きじゃなかったんです。みんなちゃんとしていて、凛として張っている感じにあまり親近感がなかった。

ワン・チョン :

これは全然なんの訓練もしないでできるような動きじゃないと思いました。この岡田さんの体の使い方はとても好きです。以前ニューヨークでアメリカの役者と演出家でやった『三月の5日間』を観ました。体の使い方も岡田さんの真似をしようとしていましたが、なんかつまらなかった。今日の作品は役者さんが出てきた瞬間から感動しました。体の使い方が、はっきりしていないと同時に適切であったような気がします。はっきりしていないというのは、鈴木忠志さんのような硬く激しい動きではなく、細かい柔らかい表現ではあるがそれが適切に表現したいことを表現しているということで、とても素晴らしかった。最初は日常の体に近いと感じていましたが、そこからだんだん奇妙な動きになっていって、すごく心地よく、内容ともぴったり合っているという感じがありました。

岡田 :

僕がこういう演劇をつくるようになったきっかけは、日常の自分たちの体のありようをそのまま舞台に上げたほうが、観客と親密な関係の上演を作れるんじゃないかと思ったからなんです。なぜ舞台上の俳優の体はちゃんとしていなきゃいけないのかという疑問があった。別にちゃんとしてなくてもいいじゃんて。例えばだらしない生き方をしている人間や良くない考え方を持っている人間みたいなキャラクターを舞台上で見ることはできるわけです。俳優の体のありようも、だらしなくたっていい。固い言い方をすると、だらしない体のありようを、美しいものとして、新しい美として提示したかったんです。でもまずなによりも、僕自身がダラダラした体で生きているっていうのが一番大きいんですけどね。そういう自分にとってしっくりするものを作りたいし、見たい。だけどだんだんやっていくうちに、日常そのままの状況を舞台上に再現することを必ずしも目指さなくてもいいんじゃないかって思うように考えが変化していきました。
なぜなら舞台の上というのはそもそも日常ではない場所なので。地の上にどういう図を書くかという話ですけど、日常と非日常の舞台では地が違うので、非日常の舞台という地の上に日常と同じ図を乗せても、この地と図の関係性はそもそも変わってしまうわけですから、そのこと自体はそんなに重要ではないという考え方です。なので、それから日常を再現するということから少しずつ自分の考え方が変化、発展していき、今は舞台上でちゃんとしてなきゃいけないという決まりのようなコンベンション(伝統的な表現方法/慣習)によって俳優の体をデザインする考えを取り外して、その代わり演じる時に俳優が持っている想像によって、その想像が体に引き起こす作用がそのまま動きとして出てしまうような、そういうことが起こるような状態に体をスタンバイしておくというやり方をやることで、ああいう動きを生み出しています。

スン・シャオシン :

中国では伝統のお芝居のフォルムとして、革命をしていた時代の「革命模範劇」というものがあります。その中ではバレエ的なとても体を真っすぐにすることを追求していました。岡田さんが言うように、ちゃんとした体というよりもだるい体のほうがなにかしら伝える力が強いというふうに私も感じています。そこはとても大事なところだと思います。

岡田 :

中国の舞台でもそういう“だるい”なにかを見ることはできるんでしょうか。

スン・シャオシン :

中国の舞台ではだるい体を使っているところはほぼないと思います。先ほどの救いようがないという評論もそうですが、舞台作品は正しいことを観客に学ばせるものだと考えているんだと思います。例えば舞台上でどういう立ち方をするべきか、ということをとても強調します。舞台上の人がちゃんと立っていないと、観客はその正しい立ち方を学べない。学ばせるということを大事に思っているから“正しい”ことをやろうとしているんだと思います。中国の若者の間で今流行っている、椅子にもたれかかるような座り方を「癱(tan)」というのですが、これは舞台上ではあまり見ない座り方です。これも自分の態度を一応表しているものだと思うんです。

岡田 :

その腰に悪そうな座り方に呼び名があるんですね。そのタンは、かっこいい座り方なんですか。それともある態度を表現する時、例えばお前の言うことなんか聞かないぞとか、そういう反抗的な態度のようなものを示す時の表現として使うとか、なにかその座り方に使い方があるんですか?

ワン・チョン :

態度がないという態度だと思います。政治とかに無関心であるということだと思いますよ。

自分の体がどう動くかに関する責任を持たず、それに対して無責任になる。

司会 :

質疑に入ろうと思います。質問のある方、手を挙げてください。

質問者1 :

岡田さんの作品を観てとても感動しました。とても新しい表現の仕方で、役者のみなさんも若いかと思います。役者さんをどうやって選びましたか。またはその稽古の仕方を教えてください。

岡田 :

今回に関してはとても若い人たちだけを選んでいます。僕にとって、そういうことをしたのは初めてのことだったんですけども、期待してたこと心配してたことがいくつかありました。心配していたことっていうのは、日本はわりと儒教的なものの考え方が未だに根強いので、年齢の上下によってもしかしたらトップダウン的な作り方になっちゃう、演出家である年上の僕が何か言って年下の役者がそれを「はい」と聞いてやるようなこともありえるんじゃないかということです。そういうふうに作りたくなかったので、面接などオーディションの時には、そういう関係にはならない人ということを見ていました。この役者さんおもしろいかもしれないけど、そうなっちゃうかなという人は選んでいません。あとは僕たちがこれを作る時に使った方法をものすごく簡単に説明すると。俳優がある想像を持つわけです。で、その想像がその俳優に作用を引き起こします。その作用のうちの大きな1つが、その俳優の体を動かすということです。だからまずその想像を持ったり、作ったり、豊かにすることができる人を選びました。そして、持った強く豊かな想像がその人の体におもしろい作用を引き起こす人というのを選びました。だから我々にとってその想像というのは、例えるならお酒みたいなもので、お酒を飲んだ時、お酒に強くていくらお酒を飲んでも全然変わらない人がいますけど、そういう人はあんまりおもしろくなくて、ちょっと飲むとすぐ踊り出しちゃうみたいな人のほうがいいな、ということです。訓練というのは、例えば鈴木忠志さんだと、なにを訓練しているのか非常に明確ですけれども、僕はそこまではっきりしたものはありません。自分の体を動かすという言い方をしますけど、本当にそうなのか、自分が自分の体を動かしているんだろうか、そうではないところも大きいんじゃないだろうか。つまり自分の体は動かされているんじゃないだろうか。何にか、というと例えばそれは想像にです。そのことを確認したり、そのことを意識したりしながら自分の体を動かすんじゃなくて、自分の体が想像によって動かされるということを実践するリハーサルをしています。だからある意味で、自分の体がどう動くかに関する責任を持たず、それに対して無責任になる。で、体はなんか勝手に動かされてしまうみたいな、制御が外れた状態の体を舞台上で見せるということをやっています。さっきワン・チョンさんも言ってくれましたけど、それは結構訓練が必要なことなんです。

演劇に対してすごく強い違和感を持っていた

質問者2 :

質問が2つあります。まず1つ目です。私はふだん中国または欧米の舞台を見ることが多く、日本の舞台を観たのはこれが初めてです。中国のものだと、舞台に登場する役者を通して何か自分の伝えたいことを言わせるということをたくさんの演出家がしていると思うのですが、岡田さんの芝居を見る限り、ただ事件を淡々と述べている感じがしました。それは日本独特の文化でしょうか。それとも岡田さんがなにかを表現したいのでしょうか。

岡田 :

ありがとうございます。今おっしゃったポイントが日本的ななにかだとは僕は思わないです。おそらくそれは僕の個人的な演劇に対する考え方と関係したことだと思います。たぶん僕の演劇を特徴づけているすごく大きなことは、僕が演劇を全然好きじゃないということで、好きだと思ったことがない状態で演劇を始めたことだと思います。演劇に対してすごく強い違和感を持っていたってことなんですけど、役とそれを演じる役者が完全に一致しているという嘘を強要されることが僕にとってはとても大きな違和感でした。
もちろん役者は役を演じて、ある登場人物になることはできるんですけども、その時にまるでそこで役と役者が完全に一致しているかのような嘘をつかなくたっていいのにと思っていたんです。そんなの嘘だってみんな知ってるのに、なんでそんなに躍起になってそこを頑張るのか。頑張らなくたって大丈夫なのにって。それはとても僕の個人的なものかもしれませんけど、演劇を作る人間である僕にとってはその違和感に対してなんらか自分なりの解決、自分なりの結果、アウトプットを考え出す必要を感じたので、そういう試行錯誤をしながら今も演劇をやっています。『三月の5日間』を作っていた頃は、それに対する解決の必要性を強く感じながらやっていたので、その結果、指摘してくれたような特徴が出てきたのではと自分では思っています。今日の作品でも我々の中では、人物になる、人物を演じるということは行っています。ある人物の中に入っていったり、またそこから出て行ったりということをこの舞台上でくり返していく、ということをやっています。

ワン・チョン :

実際これはとてもハイレベルなことで、みな自由にやっているなと思いました。例えば最初に出てくる女の子なんかは、最初は狂言回しみたいな役割だと思いますが、やっているうちにだんだんこそこそと自分の役に滑り込むという感じがありました。出てくる役が4、5人で役者が6、7人という感じですが、みんな自由に滑り込み、そして抜け出す。気づかないうちにこの過程をくり返しているので、それはとてもすごいなと思いました。

スン・シャオシン :

これは演劇の歴史とも関係していると思います。例えば古代ギリシャ時代の芝居はまだ叙述しているような感じでしたが、ルネサンス以降は対話、会話の形に切り替わりました。その後、ブレヒトが出てきて叙述的な芝居が復活しました。『三月の5日間』はちょっと叙述的だと思いました。岡田さんも小説家であって、大江健三郎賞を取ったということも知っていますが、たぶんそこら辺の影響もあったじゃないかと思います。

岡田 :

僕はそこに関して、確かにブレヒトから直接影響を受けています。それは今シャオシンさんが言ったように、演劇を叙事的に、叙述的にやるということを言った人なんですけど、その考え方に触れた時とても自分にとってしっくりするものだったので影響を受けたんです。

質問者3 :

前回拝見した時から新しい髪形になったような気がします。質問が2つあります。1つ目は、岡田さんは現代の哲学に関する本は読んでいらっしゃいますか。2つ目は、中国の大陸で岡田さんの作品を読む機会がなく、これから中国語版の作品を作ろうとは思っていますか。

岡田 :

ありがとうございます。髪型に関しては、すぐ飽きてしまってわりとすぐ髪型を変える傾向がある人間です。哲学に関してそこまで勉強熱心ではないです。たまに読むぐらいのことはしていますが。最近だと、例えば数年前に亡くなりましたけど、ドイツのウルリッヒ・ベックという人の本を興味深く読んでます。大陸、中国に関してですけど、今回とにかくこうやって初めて公演を実現できたことが今の時点ではすごく良かったなと思っています。でもまた次もできれば公演したいですし、とにかく今僕にとって大陸、中国って興味深すぎて、まだちっとも分からないので、これから接触する機会を自分はすごくほしいなと強く思って今もここにいます。決まった予定はなにもありません。でもそれを作りたいので、今すぐどうやったらそれが実現できるかの戦略を考えるミーティングをやりたいぐらいです。

体験は体験をした人の中には残るので、そのことは永遠だと思っています。

スン・シャオシン :

永遠ということに関して岡田さんの意見を聞いてみたいんです。作品の中で男の人が女の人にいつまでも永遠にということは考えていないよね、という質問をして、女の子は当然そうですよみたいな答えをしました。その時、私はとても悲しく感じました。私は80年代生まれなんですが、いつまでも永遠にということに対して憧れもあり、執着もあります。今の90年代生まれや00年代生まれを見ると、みんな永遠だなんて全然考えていないところがあります。自分も永遠なんてないかな、ないんじゃないか心の中で疑問を持つこともよくあります。岡田さんはそこらへんをどのように考えていますか。

岡田 :

僕自身はどうですかね。僕は70年代生まれですが、そういう世代全体を代表している自信はほぼないんですけども、僕はたぶん永遠ということを信じてない、望んでもいないかもしれないですね。そんなことちゃんと考えたこと今までなくて、なんか今考えながらドキドキしてるんですけど。なんだろうな。永遠ね。例えば、なんか僕自分の話をすると、1人の人間として永遠に生きられないみたいなことを悲しいと思ったことがたぶん一度もないんですよ。で、ここから先はなんか僕がやっているアーティストという職業とつながってきちゃうかもしれませんけど、作られた作品がそれを見た人の中では残るんですよね。そのことは信じているんです。それは例えば演劇というのは、本や絵画のようなものと違って形としては残らないかもしれませんけど、でもその体験は体験をした人の中には残るので、そのことは永遠だと思っています。じゃあ僕は永遠を信じてるってことですね。

司会 :

ありがとうございました。

<<プロフィール>>

スン・シャオシン(孙晓星/Xiaoxing Sun)
劇作家、演出家、批評家。1986年天津生まれ。北京を拠点に活動。中央戯劇学院卒、現在天津音楽学院戯劇ドラマ及び映画科講師。2015年、劇団「en?」(这是怎么回事?怎么变这样?/ What has happened? How does it come to this?)を設立。近年には、若者を中心に中国の現代社会を広く覆うインターネット環境やマンガから着想を得た、『漂流宅(Drift Home)』(2014)、『Speed Show: Drifting Net Café』(2016)、『空爱①场(Love’s Labour’s Lost)』(2016)、『這是你要的那條信息……不要讓別人看到;-)(Here Is the Message You Asked For… Don’t Tell Anyone Else ;-))』(2016)などの作品を発表している。また、日本の劇作家・演出家の佐藤信が北京で手掛けた作品『絕對飛行機(Absolute Airplane)』(2016)ではドラマトゥルクを務め、演劇ジャーナリスト徳永京子と演劇批評の藤原ちからにより北京で行われた、日本の現代演劇に関するレクチャー「演劇最強論in China講座」では共同モデレーターを務めるなど、日本の演劇との交流や知見も多い。

フェスティバル/トーキョー17 アジアシリーズ vol.4 中国特集
『恋 の 骨 折 り 損 ―空愛①場― 』
Photo: Hibiki Miyazawa (Alloposidae)

ワン・チョン(王翀/Wang Chong)
劇作家、演出家、Théâtre du Rêve Expérimental 芸術監督。北京大学で経済と法律を専攻し、ハワイ大学で演劇を研究し修士号を取得。2008年、北京に拠点を置く演劇集団「Théâtre du Rêve Expérimental(薪伝実験劇団)」の設立。古典演劇の大胆な解釈と、最先端のデジタル技術が特徴。2012年、利賀村で開催されたアジア演出家フェスティバルに参加。2013年、F/T公募プログラムで『地雷戦 2.0』を発表し、「F/T アワード」を受賞。2014年、フェスティバル/トーキョー14で『ゴースト 2.0 ~イプセン「幽霊」より』を発表した。主な作品には『Thunderstorm 2.0(雷雨2.0)』(北京の大手タブロイド紙である新京報により「過去30年間の中国小劇場作品トップ10」に選出)、『Lu Xun(大先生)』(新京報により「2016年の中国最優秀演出作品」に選出)などがある。最近では、東京芸術祭2017でアジア舞台芸術人材育成部門2017に選ばれ、『Kiss Kiss Bang Bang 2.0』を東京芸術劇場で上演。
薪伝実験劇団HP(日本語あり)

©Théâtre du Rêve Expérimental
Ghosts 2.0.  2014, Beijing, Tokyo, Shanghai, Taiyuan, Taipei
Director=WANG Chong; Photo=ZHU Lei