衣裳家 藤谷香子はなぜあの服を着せたのか
舞台作品の印象を左右する衣裳。FAIFAIのメンバーである藤谷香子さんは衣裳家として、FAIFAIの全作品を始め、ままごと、多田淳之介、白神ももこ、範宙遊泳、杉原邦生演出の木ノ下歌舞伎など、現代演劇の有力な演出家作品を数多く手がけ、金氏徹平や近藤良平作品の衣裳家としても活躍している。そして『God Bless Baseball(GBB)』以後、ほぼすべての岡田利規作品の衣裳も藤谷さんの仕事だ。普段、表に出ることの少ない裏方として、衣裳家とは何を考える人なのか話を伺った。
衣裳家としての第一歩
衣裳家として仕事をはじめたのは、FAIFAIの前身である小指値からですよね?
多摩美術大学の学生の時ですね。小指値は卒業制作の時に名前を付けたのでその前から衣裳は担当していました。学校の集団制作としてすでにFAIFAIのメンバーと一緒にやっていて、その場の雰囲気で役割が決まった感じです。脚本、演出をする北川陽子と篠田千明が見ながら、まずはみんなで動いてみよう、そこから役を決めていこうとなったんです。衣裳がいるよねとなった時にやりたい人がいたんですけど、その人が主役になってしまったので(笑)、じゃあ私がやりますと手を挙げました。
衣裳に興味があったということですか?
小学生の時の夢がファッションデザイナーだったんです。でも高校でCMを作りたいと思って、広告の世界に行くには美大だと思って入ったんですが、映像を撮りたいということを遡ると衣裳家の大先輩である北村道子さんやスタイリストのソニア・パークさんの存在がありました。高校時代は雑誌の「広告批評」をずっと読んでましたから。でも手を挙げた時はそんなことは何も考えてなくて、できる気がします!みたいな(笑)。みんなそれぞれの役割を勘でやり始めたと思います。
そこから全作品の衣裳をやっているわけですが、最初にやってみて続けていくものだと思ったんですか?
そこまで考えていませんでした。他にやりたい人もいなくて独占企業みたいになっていただけなのかも。何より楽しかったんです。
立ち上げからずっとやってきたFAIFAIはどんな制作の進め方なのでしょうか。
FAIFAIでは公演の場所から何から全部みんなで決めていく集団制作というスタイルをとっています。全員で始めても最終的にそれぞれの分野で分業になるんですが、それは残りの20%くらい。もちろんはじめからそれぞれの分野のことは考えてますが。FAIFAIは作品を作る段階からメンバーそれぞれが今考えていること、興味を持っていることを話しながら作っていくんです。お互いの考えを共有しながら1つの作品におとしこんでいくラリーみたいなものがあります。持ってるものを全部出すみたいな。他のお芝居だとこれはちょっとと言われるものも受け入れてもらいやすいというのはありますね。
それは自分の個性をより強く出しているという感覚?
そうですね。
FAIFAI以外で衣裳の仕事をやるようになったのは?
FAIFAIや亡くなった危口統之さんの悪魔のしるしなどで舞台監督やっていたさめさん(佐藤恵)というスーパー舞監がいるんですけど、彼女が私を外に連れ出してくれたんです。柴幸男さん(ままごと)の『わが星』の初演の時、服が決まらないからちょっと来てくれないかとリハに二時間だけ参加して、一緒にライムスターのMVを見たりしながら(2015年『わが星』特設ウェブサイトで宇多丸と柴幸男の対談が組まれている)、予算の関係で役者が持ってきた服でコーディネートを組んだんです。それ以後の再演もやらせてもらっています。再演はアーバンリサーチさんの協力で衣裳をお借りして、再再演は私がいちから衣裳をつくりました。それを見た回りの演劇関係者が、FAIFAIみたいな作品以外でもできるんだって声をかけてくれるようになったんです。だからさめさんのおかげ。今年公演があった「わが星」の台湾バージョン「我的星球」のフライヤーで着ている制服は、自分が中学校時代に実際着ていたものと同じものを買い揃えてもらいました。
『わが星』は岸田國士戯曲賞も取り、そこで衣裳家としての認知されるようになったんですね。
そうだと思います。その後、篠田が柴さんや岡崎藝術座の神里雄大さん、当時木ノ下歌舞伎のメンバーだったKUNIOの杉原邦生さんとか同世代の演出家5人に声をかけて、『キレなかった14才♥りたーんず』を企画して、連続上演企画をやったんです。そこで同世代の友だちができて、お互いの作品を観に行ったりすることが増え、杉原邦生さんはその時に声をかけてくれたと思います。実はりたーんずでは衣裳の仕事も何もやってないですけどね……
木ノ下歌舞伎と杉原邦生が教えてくれたこと
衣裳家として仕事を始めて、これが衣裳家の仕事だとつかめてきたのはいつごろですか?
木ノ下歌舞伎の杉原さん演出作品の仕事からかな。FAIFAIでの純粋培養では主にセンスを養われて、ままごとの柴さんには別のベクトルの自由さを養われました。歌舞伎という古典が元になる作品なので、時代や関係性をわかった上でこの人がこういう役でこういうキャラということがちゃんと説明できなきゃいけない。そういう観点でもとても鍛えていただきました。
木ノ下歌舞伎は過去作品の参照がはっきりあります。その時はどういうところからスタートするんですか?
主宰の木ノ下さんによる作品についての歴史的な解説から始まる勉強会があって、今回の作品は特に過去のどれを参考にしますみたいな白黒とかの歌舞伎の映像を見て、完コピするところから始まるんです。そのあと具体的なクリエーションに入ります。
木ノ下歌舞伎解釈や杉原邦生解釈がそこから入ってくると。
そうです。木ノ下歌舞伎に関しては、難しいがゆえに私がいつも決めるのが遅くてご迷惑をおかけしていて…(笑)。選択肢が多いんです。まず着物か洋服かを悩み、ミックスという手段も出てくる。説明が下手で申し訳ないのですが、他の現場よりも美大受験の平面構成という科目に近いものを感じています。様々な要素、演劇で言えば登場人物の関係性を構成、表現する作業というか。
古典で演じられていた役の関係性から木ノ下歌舞伎が表現する役のバランスにしていくわけですね。
木ノ下歌舞伎はわりと登場人物がフラットになりつつも、主役は主役としていないといけない。杉原さんと仕事をして思ったのは、あ、主役っているんだってことなんです。FAIFAIもままごとも、チェルフィッチュもですが主役がひとりだけいるということがほとんどなかったので、ですごく勉強になりましたね。
それが先程の平面構成の話なんですね。
でも、主役じゃないのにこの人のシーンけっこうあるよね、しかも最後主人公と戦うよね、とかいろいろあって、そこに登場人物が多くなってくるとプスンと糸が切れてしまう…。もう寝ようって。最終的に決定するのは、平行線をたどっていた私と杉原さんがクロスする時なんですが、それまでずっと煮詰め続けて衣裳合わせに臨みます。いつも蜂の巣にされる気持ちで行ってます。
木ノ下歌舞伎で鍛えられた衣裳家としての感覚は以後の仕事でも同様に使えるものだったのでしょうか。
現場によって露出具合は違いますが使ってると思います。柴さんや杉原さん、モモンガ・コンプレックスの白神さん、範宙遊泳の山本卓卓くんとかは職人気質な人が多くて、真面目だけどすごくふざける。でもふざけに芯が通っていて、地に足ついてるんですよね。そういう人たちを経ての岡田利規さん。岡田さんは、同世代の演出家たちとは違うし、わたしが持っていない感覚の人なんです。でも、岡田さんはオーダーが少ないけど具体的なのでわかりやすいですよ。
まず何から始めるのか
オファーをもらった時、どう考えを組み立てていくのか教えてください。
時と場合によりますが、最初の最初はなるべく本を読みません。作っている現場を見て思ったことが大事だと思っています。あと、フライヤーも大事。もちろんその後で台本も読みますけど、最初はその作品ができていく空気にどっぷり浸かろうとします。
台本から自分なりのイメージをもって臨むという順番もあると思うんですが。
出ている役者を中心に見ているんだと思います。何が似合うかにつながっていくんですけど、どういう人か、どういうものを見て、どういう会話が多くて、私服はどんな感じかというのを見ています。
なるほど。私服から何がわかるんですか?
自分で選んでいるものが、その時の精神状態含めいちばんその人に似合うものだと思います。選ぶ服には、その人のなかで何が流行っていて、体型がこうだからそれを隠す、あるいは活かすためにこう着てるというような情報が詰まっています。おしりがコンプレックスだからあまりパツパツのものを着ないんだろうなと思って、「何か服選びで気をつけてることはありますか?」とかも聞くようにしています。
リハを見て、台本を読み、提案という流れですか?
できる限りリハは多く見たい。提案まではけっこう時間がかかりますね。
いつも質問してますよね?
してますね。演出家にも役者にも質問責めです。デートの時に着ていく服とか、ドレスコードを線引きするとその人の服への感覚がわかります。繰り返し演出家が言っている言葉もとても大事なヒントです。そこからは具体的な服のアイディアに行きます。例えば『部屋に流れる時間の旅』は、岡田さんが俳優の青柳いづみさんに柔らかく柔らかくとずっと言っていて、それに幽霊ということを合わせて考えて黒でない紺の柔らかい風に揺れるような衣裳にしました。風に揺らすかどうかは岡田さんの判断なので、揺れたのは結果としてです。一方で安藤真理さんは、生きている人で対極だから硬くてまっすぐだなと思って固い素材のプリーツスカートに。青柳さんの服は私がつくったのですが、外部の方に作ってもらうこともあるので人に伝えなきゃいけない時は絵も描きます。服を揃えることのほかに、毎回何かしらひとつは自分で作っていますね。イメージしたものがある時点までに探して売ってなければ、作るぞ!となる。『三月の5日間』でも、スリットが入った中間さんのパンツと渋谷さんのハイウエストパンツを作っています。
「三月の5日間」の衣裳のこと
『三月の5日間』は、どうやって衣裳が決まっていったのでしょうか。
最初の頃から今回のリクリエーションは時代劇だと話しをされていて、岡田さんがわざわざ伝えてきた言葉だったのでその意味を考えていきました。フライヤーも大事です。フライヤーもどういう作品になるか具体的に決まっていない段階で作るものなので、迷った時にフライヤーに戻ります。作ってる途中でフライヤーに戻らなかった作品でも、できあがってからフライヤーを改めて見て、合っていたなということもよくあります。現代の時代劇ということについては、いつ着ていてもおかしくない昔からある服でいまどこででも手に入るもの、という考えに至って、そこからアイテムを具体化していきました。昔と言ってもここ数十年、いま生きている人たちが見てきて知っている一般的なアイテムです。セーターは知ってる、ジーパンは知ってる、チェックのシャツも知ってるみたいな。でも、中間さんだけ外しましたね。
それは本人のキャラクターから?
いや、肌出した方がいいと判断した時点でちょっと外したんです。
みんな舞台装置の豆腐(頭上にある四角い箱をそう呼んでいる)から生まれてきたって設定なんですよね??
あ、そうそう、イメージはそうです。みんなあの豆腐からトプンて落ちてきたんだけど、中間さんだけ下に貼られた線からプウンて生まれきたという。
あ、だから上着のジャージは線のあるアディダスだったんですね。
たまたまですけどね。これだと思った服に3本ラインがはいってました。でも、たまたまもわりと多いから、無意識から導かれてつながったことからこうやって自分で納得して決めていくんです。
『三月の5日間』は朝倉さんのミッフィーちゃん以外、明確にこの人がこの役というのがないと思うんですが、他の作品より難しかったりするんですか?
いや、そんなことはないです。
役に引っ張られることはあまりない?
そうですね、たぶんないんじゃないかな。細かくはありますよ。最後のシーンで渡邊さんが演じていた渋谷駅に帰っていく女の子は帰国子女だったから、帰国子女イメージの服装とか。一発目に出る人とか最後を〆る人とかそういうのは、お客さん目線で見ていてどうしたほうがいいというのは考えました。最後の二人のシーンは、そこまでの服の流れを変えたくてノイズを多くしようとナイキのナップザックやスヌードを加えました。これは後から気づいたことですが、あれは普段の私なら100%選ばないものなんですが、古くはないけど今はどこででも見るアイテムで、ノイズなそれらを乱用、重複させた服装は、特徴が消えてフォーカスをオフにしてくれることで背景にすぐ溶け込めるものになるんだと気づいたんです。最後、渋谷の雑踏に紛れて、その一部に戻るという意味でピッタリでした。わかりやすく今のものであることが匿名性を帯びる、という今回の衣裳選びは、岡田さんの時代劇という言葉が鍵でしたね。さすが岡田さん、すごい。
僕は渡邊さんがスヌードを巻くのは、(結果二人で向うことになるけれど)一人になってこれから向うスクランブル交差点の猥雑な周囲から身を護る的な感覚もあるのかなと考えていました。コンセプトの部分で深く共鳴できた仕事で素晴らしいですね。
最後だけじゃなく、最初に出てくる板橋さんのインパクトとかも考えましたよ。カタカタカタと歩いてくるおもちゃ感も。
板橋さんは私服もああいう感じですよね。
だるいのかヤンキーなのか、そういう役の喋り方にも合っていました。それはリハを見ていないと気づかないことでした。渋谷さんだけなかなか決まらなかったですね。元々は渋谷さんに寄せて考えていたんですが、そうしないほうがいいという岡田さんの判断があって、あの衣裳になりました。渋谷さんぽさのある甘めのものよりハード目の方がいいんじゃないかって。
確かにそのまま甘めだと渋谷さん自身が出過ぎる気もしますね。
甘い服を着てたらふわふわするんだけど、キメな感じの衣裳を着ていると芯がドスンとある感じになる。岡田さんすごいなって。甘いままだったら持たなかったなって。
役者の個性を活かすというお話しもありましたけど、それぞれの役者に着てもらって、そのフィードバックももらうんですか?
その前にいろいろリサーチしているので、あとは気分がアガるかサガるかくらいですかね。渡邊さんだけは「ちょっとキモい感じというかダサくしていい?」と事前に聞いて、「もちろんです」と許可をもらいました。リハを見ていて、みんな個性的なんだけど渡邊さんは動きとかその中でももっさり感が強かったから、それにもっと拍車をかけたほうがいいと思ったんです。そうした意図はイメージは共有しますけど、役者には基本言いません。
範宙遊泳の『もうはなしたくない』でも衣裳を担当されていましたけど、あの作品は女性の性を語るという芝居と衣裳の役割が分かちがたく結びついていた作品でした。作品の内容への貢献度が高いと感じたのですが、対演出家で違いはないですか?
基本的にはあまり変わりません。任せてもらっていれば、貢献度はどの作品も一緒です。
映像演劇のエロさと解像度
これから熊本市現代美術館で始まるチェルフィッチュの個展『渚・瞼・カーテン チェルフィッチュの〈映像演劇〉』は、普通の演劇作品とは違ってすべて映像を用いていますけど、どうでしたか?
服を選ぶという観点では変わりません。映像演劇で恐れを感じていたのは、スチールではそうじゃないんですが、動いている映像では人の目は観たいものに視点がフォーカスされるんですね。絵としては全部見えるけど、動いているしカットも変わるので細部としては全部を見れない。観たいものを観るはずの動画でこんなにすべてがフラットに丸見えで大丈夫? という不安はありました。
映像作品は初めて?
PVとかはありましたけど、これだけ動きの少ない映像はないですね。しかも展示という空間ですからね。基本お話しや設定があるんですが。メインとなるのが、フライヤーの写真にも使われている半透明スクリーンの向こう側で演技している役者を撮って、それを同じ半透明スクリーンにプロジェクターで投影する作品です。
半透明でぼやっとしたものになるよと言われて衣裳を選ぶわけですよね?
そうですけど、あんまり変わらないですよ。だって何選んでもモヤですから(笑)
いやいや、だからこそ色とかあるじゃないですか(笑)。先程のフォーカスという観点もかなり関わってきますよね。色や柄も抽象化されてしまう。
冗談です(笑)。近づいたり離れたりして見え方が変わるんですけど、近づくと服のディテールが見えます。スクリーンに触れるところまで近づいてくると血管や服の皺まで見えて、急に解像度が上がる瞬間がある。その瞬間の髪の毛なんかかなりエロい。寄っていく瞬間を考えて、そういう人の服については情報の多いもの、例えば毛だったり、ニットの編みだったり、チェックみたいなものを選びました特別なことをしているわけではないのに、スクリーン越しに見ていて細部の情報がみえたとたん「ひゃー、エロい」となりましたから(笑)。いま話していて思い出しました。観たいものが観たいとさっき話しましたけど、ちょっとでも近づいて情報量が増えると、お客さんはもっと!もっと観たい!となります。つまり、観客として観たいものが観たいっていうのは、「想像したい」んだなって。情報がちょっとで得られるとその先はどうなってるのか想像しますよね。その情報量と想像の関係を、衣裳がコントロールできるというのは考えていました。岡田作品のほとんどの照明をやっている大平智己さんが、肌や髪、衣裳の反射率とかそういうことに本当によく気づく方なんですけど、『三月の5日間』の頃から、人の皮膚とか髪の毛とか、ファーもですけど、衣裳的観点でも光の反射率のすごさが気になっています。なんて美しくて、マブい素材なんだって。それで映像演劇では、毛をよく使いました。
「想像」というのはまさに岡田さんが言っている言葉ですが、衣裳が想像を促す、もしくは邪魔をするということについてはどう考えていますか?
基本的には邪魔をしないというのが大前提にあります。私が選んでいるものは、文字やキャラが極端にありません。あっても遠目ではよくわからない程度のもの。必要でない情報はできるだけ削ぐというのがありますね。それは岡田作品に限りません。削り過ぎで、地味じゃないかと言われることもありますから。FAIFAIも後ろ身頃がない服とか変な衣裳もありますが、そういうキャラなので仕方ないとして(笑)、基本的にはシンプルでツルンとしてると思いますよ。目につくものがボンとあるだけで他の細かいところは削いでいます。派手な衣裳だったとしても、衣裳が邪魔をしないという意味では、どれも同じ気持ちです。
ちなみに衣裳を入れる入れないの判断は誰がするですか?
制作が判断することも多かったのですが、変わってきています。岡田さんは、元々はあまり衣裳に興味がなかったんです。そもそも岡田さんのスタートが、『三月の5日間』などの初期作品では俳優がたまたま着ていた私服で着ていたものそのままで演じるというものだったので。でも藤谷さんと仕事をして、衣裳によって作品の受け取られ方が変わりうる、大事だということに気づいたんじゃないかと思います。
それはうれしい。
邪魔をするしないというお話しがありましたが、ディテールと全体の印象というのがありますよね。観客が近くにいる時、遠くにいる時で見え方が違ってくると思うんです。
基本的には遠いところから見える方で考えています。これはわたしの癖でもあって、すぐ遠くから引いた絵で考えてしまうんですが、そうなると個人にフォーカスした時に情報として薄くなってしまうことが最近気になっています。ここにひとつブローチ付いていればみたいな。リハや本番を通して客席で何度か観ないと気づかなくて、もっと最初から気づけよと。アクセサリーや爪は最初のほうから言うんですけど、服の方はどうしてもツルッとしたものになってしまう。だから細かいことをやったほうがいいなと最近考えていて、細かなことが積み重なって見えてくるものがあると思うので、それがいま課題ですね。先程話した範宙遊泳の作品は気をつけました。ちょっとずつよくなっていると思います。前までは情報が多いとダサいんじゃないかって思ってたんです。衣裳っぽ過ぎるというか、いらなくないそれ?みたいな。普通歩いてたらそれ付けないでしょみたいな、作為が見え過ぎちゃうと思っていたんですが、あることでいいこともあるんだなと大人になってわかりました。
作品がイケてるものになるために
作品における衣裳の意味、役割は演出家が求めるものによって変わるものですか? それとも藤谷さんにとっては衣裳が果たすべき役割は同じですか?
根源的には一緒だと思います。作品がイケてるようにするために……(笑)
イケてる…(笑)
できるだけ客観的にという意味で、基本的にお客さんの気持ちで現場にいます。それは、お客さんに観やすくする、伝えやすくするという役割があるから。作品意図というとちょっと違うんですが、作品の力を伝える手伝い、みたいなことは思っています。
ちょっと話は違いますが、私がお世話になっている衣裳家の加納豊美さんに「みんな衣裳のアイディアソースとかどうしてるんですか、先輩たちは」って聞いたら、すーごいかわいく「えー、生き様ぁ?」て。「おぉ」となりましたが自分がそれを納得できたのは、これまで観てきた自分アーカイブみたいなものが完全に仕事に反映されるからで、だから自ずと得意なことも変わってくるんですよね。
なるほど。どうしようもなく個性が合わないこともある?
幸いにも私の場合はオファーをしてくださる方々が私の特性を理解していただいているのか、今のところありません。でも、多方面からお仕事お待ちしております!
逆をいうと、藤谷さんみたいな感覚の人と仕事がしたいというオーダーなわけですよね。
そうだとうれしいです。信頼しているヘアメイクの方がいて、その方が現場に来るだけでいつも華やいで、仕事が素晴らしいのはもちろん、現場全体に癒やしとリラックスをもたらしてくれるという素晴らしい仕事までしてくれてるんです。チェルフィッチュもそうですが、わたしが入る現場でヘアメイクさんがいないことも多いので、そのヘアメイクさんがしてくれている役割を衣裳という立場で少しでもできたらとも心がけています。
生き様が反映されるという話がありましたが、最後に、藤谷さん自身は自分が着るファッションについて何か考えていることはありますか?
どこに出ても恥ずかしくない、肩を切って歩けるようなかっこいい服があって、それに何年も着ているような自分のからだに馴染んだ服を合わせるのが好きです。あと最近は、いつ死ぬかわからないと思っているので、例えば旅先にどうでもいい下着を着て行って、帰りに捨てて荷物を軽くするということができません。むしろおろしたての下着を着て行きたいし、不慮の事故で死んだとして、お気に入りのきれいなブラとパンツで発見されたい。なんでよりによってこの服着てるんだ、みたいなことがないように好きな服を着続けたいですね!
interview:Hiroyuki Yamaguchi
photo:Rui Ishiguro