岡田利規寄稿 幽霊の生は大事な問題だ

この記事は2016年12月に公益財団法人セゾン文化財団ニュースレター『viewpoint』第77号に掲載された原稿の転載です。

No ghost, no theatre.

 今年の三月、『部屋に流れる時間の旅』という新作の世界初演を京都で行った。この新作にも近年の私の作風に違わず幽霊が登場する。ある男の亡くなった妻の幽霊が主人公、という芝居である。
 この芝居の制作の佳境段階の数週間、私たちは京都でリハーサルの日々を送った。ある日稽古場でこのクリエーションの演出助手を務めてくれていたYくんが、京都の中心部から少しはずれたところに今は廃墟となっている、かつてラブホテルだった建物があって、そのあたりはそのホテルで殺された女の幽霊が出る有名な心霊スポットになっているので、今度よかったらみんなで行ってみませんか、と提案してくれた。もし行くと決まれば京都出身のYくんが実家から車を借りて運転して連れて行ってくれるとまで言う。最初私はその話に乗るつもりだったけれども、気が変わった。直前で怖くなったのだった。が、その女の幽霊に失礼だと思ったからでもある。供養するつもりでもあるならばいざ知らず、興味本位で集団でがやがや出向いていって覗き見するような行為が彼女にとって気持ちのいいものであるはずがなかろうと思った。
 私はいわゆる霊感といったものを持ち合わせていないし、幽霊をこの目で見ることはできないのだけれども、それでも私にとって幽霊は存在している。だって幽霊のことを〈怖い〉と思っているということは、そういうことだ。この感覚を私は尊重している。そして、こんなふうに今の私が幽霊の存在を認知していることは、それなりに長く演劇をやってきた結果として演出力が備わってきたことと明らかに関係していると私は感じている。演出力が付くまでは幽霊を怖いと思っていなかった、というわけではなくて以前からそれなりに怖いと思ってはいたのだが、演出力を手に入れる前は幽霊を怖いと思うことを重要なセンスだととらえてその感覚を肯定し尊重するということが私はできていなかったと思う。
 ところで今私が言っている〈演出力〉というのは、舞台上で生じる行為・出来事・状態が観客に対して引き起こす効果・現象に焦点を合わせて、それらの働きの強さを判断して、その働きをより明確で強いものにするための操作を施す技術のことで、そんなふうに俳優が行ったパフォーマンスそのものにではなくそれが引き起こす効果・現象のほうにより重心を置いて見る、というのは俳優を幽霊のように見る、ということに近いと思っている。もちろんそれでも演出力と霊感というのは断じて別物であって、だから演出力がつけば霊感も身につく、といったことはないし、霊感のある人が必ずよい演出家になれるというわけでもきっとないだろう。それでも両者には相似点が、根っこを同じくしている部分がある。だからこそ私はこうして演出という作業を長く継続することによって、そのつもりもないままに、気がついたら幽霊というコンセプトに接近できるようになっていた。

想像力の使途(その1)

 幽霊は人類の偉大な発明品だ。私たち人間は自らの想像力を、幽霊というコンセプトに基づいて用いることによって、現在のこの時間を構成する要素の中に〈過去〉が必ず含まれている、という事実を感覚のレベルで確かめることができる。過去をこのような生々しい仕方で形象化できるというのはとても便利なことだ。もし幽霊が存在しないとすれば、それは現在というこの時制の中に過去など織り込まれていないということを意味する。そしてそんなことはないのであるから、つまり幽霊は存在する。こんなにもシンプルな手続きで、現在の中に織り込まれている過去、という概念を実体化させられるのはなんとすばらしいことだろう。
 ところでこういうことを考えていたとき、ひとつの疑問に行き着いた。現在時制の中に含まれているそれ以外の時制、とは、過去だけではない、未来だってそこには含まれているだろう。それでは幽霊が過去を生々しく形象化したものなのだとしたら、未来を形象化したものとは一体なんだろうか? 現在時制の中に現れる形象化された過去に対しては、私たちは〈幽霊〉という呼称を与えているけれど、形象化された未来のことをどう呼ぶのか、そのための呼び名はあるのだろうか? この疑問を先日、今秋の『部屋に流れる時間の旅』のヨーロッパツアーで訪れた地のひとつ、パリ郊外の劇場、テアトル・ド・ジュヌヴィリエに併設されているカフェで終演後に、見に来てくれていた観客数人と話していたときに口にしてみたら、そのとき一人が、それは〈天使〉じゃないか、と言った。天使? その答えは面白いかも。とそのとき思ったものの、同時に正直なところ、単に私が〈天使〉の概念を─それ以上にキリスト教のこともだが─よくわかっていないからなのかもしれないが、いまいちピンとこない感じもあった。そもそも天使というのは、まだ生まれてきていない存在の霊的状態を言うのだろうか?
 ところが、これはそれから1ヶ月と少し経ったときのこと、今年の秋のツアーの最後の地であったベルリン公演も無事に終わらせて、約2ヶ月ぶりに日本に戻る機中で私は、数日前に iTunes 上でレンタル購入して自分のパソコンにダウンロードしてあったヴィム・ヴェンダースの映画『ベルリン・天使の詩』(1987年)を見た。20年ぶり以上のことだったと思う。ベルリンに住む日本人の友人が、ベルリンの街を知ってから見直すと知らない状態で見たときと全然違って見えて面白いと話していたのを聞いたので、その夜ポチッ、とレンタルしたのだった。見はじめてみると、あのときのジュヌヴィリエでのおしゃべりのことを思いださずにはいられなかった。この映画の天使は、未来という時制の形象化と言うのとは違うにしても、永遠の時間、もしくは無時間に属している。あのとき、過去の形象化が幽霊なら未来の形象化はなんですかねという私の問いに、天使、と答えた彼女はあながち間違いではなかったんだなとよくわかったような気がこのときした。もっとも、あのときそういった女性はもしかしたら念頭にこの映画のことを浮かべていたのかもしれないけれども。
 このタイミングでの『ベルリン・天使の詩』の久方ぶりの再見が私にもたらしたもうひとつの驚きは、天使を演じる俳優と生身の人間を演じる俳優のどちらもが、特殊効果やメイクといった手法による区別をつけられることは何もなしに、ひとつの画面の中に収まっているにもかかわらず、かたや生身の人間であり、かたや天使という霊的存在である、ということをわけなく成立させているということだった。そうしたことはもっぱら演劇の得意分野であると最近何年も決めつけてかかっていたふしがあったけれどもこうして目の当たりにしてみれば、決してそんなことはない。

想像力の使途(その2)

 幽霊と同様に演劇もまた、人類の偉大な発明品だと私は思っている。その実感をはっきりと抱くきっかけとなったのは、『わかったさんのクッキー』という児童書を原作にして、四歳以上を対象年齢にいわゆる子ども向けの演劇をつくることに昨年初めて取り組んだときだった。原作の持つ奇想天外なストーリーやめまぐるしい展開を演劇的な仕方で忠実に描くために、具象的な手法を取るということを私はしなかった。舞台美術を現代美術家であり彫刻家である金氏徹平氏に依頼した。彼が国内外のホームセンターを物色して集めた一見用途の不明なものも多く含まれている大きさ・色ともにさまざまなモノたちを、円形の舞台上に配置し、俳優がそれを次々に取っ替え引っ替え手に取り、ときにはいくつかのモノを組み合わせて用いながら演じることによって、モノが表象する意味がくるくると変化していく。そうしたやり方で『わかったさんのクッキー』というスピーディーでサイケデリックな原作のストーリーを舞台化した。金氏氏はその様子を「モノたちも演じている」と呼んでいた。これは演劇においてはありふれた〈見立て〉と呼ばれる手法だとも言えるのだが、私はこれを〈まほう〉と呼んで、今作のクリエーションのキーワードにした。出演者たちには観客に〈まほう〉をかけること─すなわち、今はどういったシーンが行われているのかということを具象的でない仕方で、にもかかわらずダイレクトに観客の感覚と想像力に働きかけるということ─を第一に心がけて演技してほしいと要求した。
 けれども私たちの〈まほう〉がはたして彼らにちゃんとかかるのかどうか、はじめは不安が大きかった。〈まほう〉がかかる、というのは要するに相手にそれ相応の想像力があり、それが反応を起こすということであって、いったい子どもの想像力というものをどのくらいに見積もっていいものなのか、いかんせん子どもに向けた芝居を作るのは初めてのことだったから、見当がつかなかったのだ。ところが蓋を開けてみるとすべては杞憂で、彼らの演劇の観客としての能力はほんとうに申し分がなかった。彼らは演劇という人類の発明品を享受するのに必要なだけの想像力はじゅうぶんに、というよりもしかすると一般の大人たちよりもよっぽど備えていて、このことを確かめられたと感じたとき私は大袈裟でもなんでもなく、深い感動をおぼえたのだったが、それは子どもたちが豊かな想像力を持っている、ということへの感動である以上に、人類が想像力を持ちかつそれを用いて楽しむ術としてこうして演劇というものを生み出したことへのほとんど畏敬の念とでもいうべき感情に襲われたということだった気がする。人類というのは四歳で─もしかするとそれよりも幼い段階ででも─演劇を経験できる。つまり想像力によって実在しない表象をとらえるという知的な営為が人類には、そのくらいの時期から可能なのだ。演劇のことを〈発明品〉だと認識するようになったのもこのときからで、幽霊を発明品だとしているアイデアも、ここからごく自然に派生したものにすぎない。そして、四歳の人間に演劇の〈まほう〉が通じるのは別段不思議なことでもなんでもない、と今になって思う。だって四歳の人間に〈幽霊〉が見えると考えることはさほど特別な話でもないだろう。

死者と使者

 三年前の2013年に初演を行った『地面と床』という芝居は、幽霊のキャラクターが出てくること、音楽と演技とが同等に併置されて上演されるというコンセプト、橋懸かりと本舞台のコンセプトを踏襲した舞台美術、といったいくつかの点において能を参照して作ったところのある作品だった。そしてその年末に偶然にも、能と狂言のテキストの現代日本語への翻訳をやってみないかという打診が私に来た。青天の霹靂とはまさにこのことだったが、池澤夏樹氏の個人編集によるこれまでにないコンセプトを持った日本文学全集の刊行準備を進めている河出書房新社の編集者チームからのオファーだった。その全集においては、古典作品はすべて現代語に訳されて収められるのだという。私でいいのだろうか? という殊勝な躊躇いを振り捨てて、好奇心にまかせてこれを引き受けることにし、それを機に多くの謡曲を─狂言もだが─読む機会を持った。そのうえで現在、私はまた能の構造を用いた芝居を作ろうとしている。複式夢幻能の構造を自分なりのやり方で使った芝居を、ミュンヘンの市立劇場のレパートリー作品になるものとして、そこに所属するドイツ語の俳優たちと作ることになっている。
 日本文学全集の、私の能・狂言の翻訳も収められた巻は今秋無事に刊行され、その中で私は「松風」「邯鄲」「卒都婆小町」を訳したのだが、この三篇のうちでは「松風」だけが複式夢幻能、つまり主人公(シテ)が幽霊であり、劇の途中までは現世のかりそめの姿をしているが後半になって幽霊としての本性をあらわす、という構造でつくられている。ある場所に満たされない思いを抱え成仏できないでいる幽霊がいる。旅の僧がある地─その多くは歌枕として知られる地である─を訪れる。その日の宿とする家をさがすため、あるいはその地にあるいわくを聞くために、僧は地元の住人と話をする。すると住人はその地でかつて起こった悲しい出来事を話してきかせるが、話の内容があまりに子細にわたっているために、なぜあなたはそこまで、まるでその出来事を見たのでもあるかのようにくわしく知っているのかと尋ねる、すると彼らは、これ以上隠していても仕方ありませんので、と言って自分の正体を告白したかと思うといったん退場し、やがて今度は本来の姿となって再登場するのである。
 演劇においては、決定的な出来事は再現的な仕方で表現されることがあり、それは有効かつオーソドックスな演劇的テクニックであって、たとえば西洋の演劇ではそれは〈使者〉という道具立ての活用によってなされることがあり、やってきた使者がたとえば重要な登場人物の死、といった決定的な出来事を告げたりするわけだが、幽霊というのもこの点においてこのうえなくプラクティカルな道具立てである。幽霊は〈過去〉が現在化されたものであり、複式夢幻能においては幽霊が彼らの身に起こった決定的な出来事─彼らに現世への未練を持たせている理由になっている辛い経験─を語ってきかせたり、当時の様子を舞いながら、なぞるようにやってみせたりするのだが、これは幽霊という存在だからこそ可能な演劇的ナラティヴのテクニックである。使者は舞台上とは別の場所からやってくる存在であって、一方幽霊は現在とは異なる時間のレイヤーに属している存在であって、そんなふうに〈ここ〉とか〈今〉ではないところに属している存在によって演劇は出来事を、演劇的に伝える。
 この非常に演劇的な能のナラティヴを借りて自分もつくりたい、と私は思った。それがミュンヒェナー・カンマーシュピーレ─というのがミュンヘンの市立劇場の名称なのだが─で手掛ける次の新作でやろうとしていることである。それは複式夢幻能の構造とか、ナラティヴの手法を借りて自分の演劇をつくろうという試みであって、私にとってこれは、コンテンポラリーな能をやる、みたいなこととは異なる。また、能を〈日本的〉というタームと結びつけてとらえる意識も、私にはかなり希薄である。私にとって重要なことは、能の形式がきわめて演劇的だということで、その演劇的であることの度合いは、私にとっては、たとえば能が〈日本的〉であることの度合いなどよりずっと大きい。ミュンヒェナー・カンマーシュピーレでのプロダクションは、見た目上はほとんど能の要素がない、といったものになるのではないかと思う。
 私の野心としては、このミュンヘンでの次のプロジェクトを足がかりにして、複式夢幻能の構造を借りた作品のシリーズをさまざまな場所で作り続けて行けたらおもしろそうだと思っている。複式夢幻能の主人公になれるのは、満たされない思いを抱えた魂の持ち主である幽霊であり、その幽霊はある特定の場所、すなわち悲劇的な出来事が起こった地に属しているというか縛りつけられている。いつの時代だってどんな場所にだって、悲劇的な出来事やその当事者となった気の毒な人物は存在しているに違いなく、つまり、能の構造や能的想像力を用いた演劇をつくるための題材に、この世界の歴史と現状は事欠かないのだ。嘆かわしいことに。

  • 岡田利規(演劇作家、小説家、チェルフィッチュ主宰)

    1973年横浜生まれ、熊本在住。従来の演劇の概念を覆すとみなされ国内外で注目される。主な受賞歴は、『三月の5日間』にて第49回岸田國士戯曲賞、小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』にて第2回大江健三郎賞。主な著書に『遡行 変形していくための演劇論』、『現在地』(ともに河出書房新社)などがある。2016年よりドイツ有数の公立劇場のレパートリー作品の演出を3シーズンにわたって務める。