個人的な新鮮
(この記事は2012年7月に『パブリッシャーズ・レビュー』2012年夏号に掲載された原稿の転載です。)
以下、近年私に起こったとあるささやかな変化について。
私は芝居を作ってる。だから、登場人物を考えるとかドラマを考えるということを、仕事としてやることになる。
ところが以前の私は、それらの作業がどうにも苦手だった。誰と誰が愛し合うだとか、憎しみあうだとか、すぐに馬鹿馬鹿しくなってしまうのだった。すべてつくりごとであり、嘘っぱちなのだ。登場人物の名前ひとつ決めることからして馬鹿馬鹿しい。どんな名前にするか考えあぐねている自分が滑稽でならない。名前なんてなんだっていいのに、どんな名前を付けてみてもしっくりこないだなどと思っている自分。ややもすれば意味というやつを名付けの根拠にしようとしてる自分。くだらないといったらない。
そんな具合に思っていた私がつくる芝居はいきおい、ドラマ性に乏しいものになった。登場人物に名前ないことがほとんどだった。
私が信じていたのはつくりごとではなくて、もっと本当のことのほうだった。本当のことって何か? たとえばその最たるものは、現にそこにある俳優の、存在。俳優がそこに存在しているということは、それだけで紛れもない何かを観客に与える。そういうことのほうが、ドラマとかキャラクターなんてつくりごとよりもずっと信用に足る。ドラマやキャラクターなんてものはむしろ、本当のことそのものが持ってる力をぼかしてしまうばかりじゃないか。だったらそんなもの、なくていい。なくても演劇は成立する、というか、ないほうが力強く成立する。
それが私の考え方だった。ところがこの心境が変化した。現在の私は、ドラマをつくることを馬鹿馬鹿しいと思わなくなっている。登場人物に名前をつけることも余裕でできるようになった。
この変化がなぜ起こったのか? 私はキャラクターというもの、ドラマというものが持つ意味が分かったのだ。意味が分かった、という言い方だと伝わらないかもしれない気もするので、言い直してみる。ドラマとかキャラクターというものが持つはたらきが、私は分かったのだ。それらが道具であり、道具だから使い途がある。そういうことが理解できた。つまり私はそれまで、それを知らなかったのだ。なぜそんなことを今まで知らなかったのか? なぜ知らないでここまでやってこられたのか? それは知らない。まあ、ほんとは知っているけれども、それを書くのは、僕が属する社会や文化のせいにしてしまうだけになるから、知らなかったのです、すいません……、ということにここではしておく。
つくりごとのドラマが現実の中に置かれることは、現実という領土の一部が突然、外国の領土になるようなこと、いきなり飛び地が出現するようなことだ。だから、現実とドラマのあいだにはおのずと、ある関係、たとえば緊張関係が生じる。
そういうことができるドラマのはたらき、ドラマの使い途に興味が出てきたのである。今さら出てきたのである。こんなこと、演劇にしてみれば何千年も前から知ってるよという話なわけだから、今さら、と言わなきゃいけない。でも、私は最近までそれを知らなかったんだから、しょうがない。
というわけで、去る二〇一二年四月に初演した「現在地」というタイトルの新作の芝居は、私としては珍しく、ドラマのあるものだった。例(些末なものかもしれないけど)を挙げると、登場人物が泣いたり、殺したり殺されたりした。
いうまでもなく、演劇の歴史というのはドラマのある演劇からドラマから自由な演劇へ、という流れを持っているわけである。そして今の私の関心はと言えば、ドラマのない芝居から、ドラマのある芝居へと移っている。逆行しているのだ。困ったことだ。僕はもっぱら最先端の演劇をやってるみたいに言われて持ち上げられたりしてるのに。それがどうしてこんなことになってしまっているのか? とても興味深い。
僕が、ドラマが現実と緊張関係を生じさせ得るものだと知ったのは、端的に言えば、震災以降の社会の雰囲気の中で生きてきた経験によってである。この現実のあり方、社会のあり方が、唯一のものであるはずはなくて、そしてこれが唯一のものであるはずがないということは、少しでも目に見える状態となっていることが必要で、そのためには、現実の社会のあり方の、このなんだか揺るぎなさそうに見える様子が少しでも、何かによって脅かされたほうがいい。そしてそういうことをできるのが、たとえば虚構なのだ、的なことに、その経験を通して気が付いた。これまでは、そういう事態に直面する必要のないところで平和に生きていた私だったのだけれども。
演劇をアップデートすることへの関心というのが、私はだいぶ薄れてきている。今の私が興味があるのは、演劇の古さを現代化することだ。ふたつはあまり違わないように見えるかもしれないけれど、全然別のことだ。現在の社会のあり方に対応した演劇のあり方をさぐることと、演劇が何千年も前から持ってる力を、私の生きる現在の社会に行使させてみようとすることとは、全然違う。
初出:白水社『パブリッシャーズ・レビュー』2012年夏号(2012年7月15日発行)
https://www.hakusuisha.co.jp/review/