話法の劇、もしくは近接話法としての『三月の5日間』(その1)
日常会話や伝統芸能の伝承場面、介護などで、人と人とが空間や時間をどうとらえ、どのように相互に思考するかを、発語とジェスチャーの微細な構造から探り、研究する細馬宏通(人間行動学者)。過去のチェルフィッチュ作品の映像を通して、「身体」と「発話」を微に入り細に入り分析した、新しいチェルフィッチュ論。
はじめに
これから何ヶ月かの間、チェルフィッチュのことについて、時間をかけて考えていこうと思う。
チェルフィッチュのことが気になりだしたのは、確か2005年7月、雑誌ユリイカで岡田利規の「演劇/演技の、ズレている/ズレてない、について」を読んだときだった。その時点でわたしはチェルフィッチュの劇を一度も観たことがなかったけれど、そこに書かれているしぐさの話は、わたしが日頃研究している日常生活のなかの身体動作に通じていると感じた。
岡田はこう書いている。「言葉としぐさの関係は、つまりこうです。線が引かれ得るとするなら、それは〈イメージ〉と言葉の間に引かれます、また同様に、〈イメージ〉としぐさの間にもそれは引かれます。したがって、言葉としぐさとは、〈イメージ〉を介した間接的な関係をしか、結びません。」だから、ことばとしぐさの間に「親子関係」のようなものを想定してはいけないのだ、と。
ことばとしぐさの間に「親子関係」を感じさせるしぐさは、学生演劇でしばしば見られる。たとえば「大きな家があってさ」というときに、「大きな」と言いながら両手で三角屋根の形を大きくなぞり、「家が」といいながら家の壁に沿って垂直に両手を下ろす、というような動作がそれだ。このように、ことばの一つ一つに対応する意味を持った動作を当てる「親子関係」式しぐさは、じつのところ日常生活ではそう頻繁には見られない。言わんとする形や配置にこだわりがない限り、わたしたちはせいぜい手を投げ出したり、からだをもじもじさせたりするくらいで、ことばの意味にいちいち対応するような動きをしているわけではない。たとえば「大きな家があってさ」だと「あってさ」のところで小さく右手をぽんと投げ出すくらいの方が、くつろいだ会話としては自然な動きに見えるだろう。逆に、何か空間的な思考をしながら話すとき、しぐさはむしろ、ことばが言い当て損ねている考えを先取りするように謎めいた動きをする。
そんなわけで、演劇人でありながらことばとしぐさの関係を思いがけない自然さで語る岡田利規とチェルフィッチュの劇には、いつか触れたいと思っていたのだが、あいにく滋賀県という比較的演劇から縁遠い地域に暮らしていることもあって、これまで彼らの公演をほとんど見逃してきた。生で見ることができたのは、「体と関係のない時間」「ゾウガメのソニック・ライフ」「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」の三作のみ。それらについてメモをとってはいたものの、まとまった形にならぬまま、チェルフィッチュと出会い損ねてしまった気がしていた。
そんな折、過去の映像を見直しながらチェルフィッチュのことを連載で書いてみませんか、というオファーを、この公式サイトからいただいた。これはまさに、12年前からの宿題をやり遂げるためのチャンスではないか。
いささか逡巡がないわけではない。演劇を映像で見るのと生で体験するのとではもちろん大きく異なる。チェルフィッチュの過去作品を映像で観たとしても、それは当時、生で観劇した人の体験した劇場という空間、他の観客の存在、そしてその時代に体験したことがもたらす強い感情の変化からは、かなり隔たったものになるだろう。しかし一方で、映像を何度も見直しながら人のことばや動作を考えるというのは、わたしが日常の動作分析を行う上で何度も行ってきた方法であり、このやり方には少しばかり腕に覚えがある。ちょうど撮影された日常の映像からその微細なやりとりに分け入ることができるように、撮影された記録映像から、生の観劇から得られる印象とは異なるいくつかの細部に分け入っていくことは可能だろう。
そんなわけで、この機会に、これまで見逃していたチェルフィッチュの過去作品を一つずつ映像で見直しながら、これから何回かに分けてここで思いついた考えを拡げていこうと思う。題して「チェルフィッチュ再入門」。幸い今年は彼らの結成20周年にあたっており、数々の上演が予定されている。連載中に、わたしが実際の舞台を見る機会も訪れるだろう。そうした観劇の経験も、徐々に反映させていければと思っている。
まず最初に考えるのは、チェルフィッチュの初期の代表作であり、12月に新たな出演者によってリ・クリエーションが予定されている『三月の5日間』である。
聞いた話
『三月の5日間』を見て、わたしがまずひっかかるのは、劇の大部分が「聞いた話」によってできあがっているということだ。この劇に登場する人びとはやたらと饒舌なのだが、それは、彼らが誰か元の話者から聞いた話、すなわち、すでに元話者によってことばに置き換えられたできごとをしゃべっているからである。わたしは『三月の5日間』を観ながら、できごと自体というよりは、ずっとその、目の前の語り手ではない元話者の気配、そしてその気配の揺れに悩まされた。ではそういう気配につきあうのは不快かといえばそうではない。よくよく考えてみれば、わたしたちが日々経験している物語の多くは誰かの語りであり、そこで起こっているのはできごとそのものというよりは、誰か元話者が見たり聞いたりしたその経験を語ることばという現象であり、場合によっては、元話者が何かを見たり聞いたりしたその経験を語っているのをさらに第二の話者が語り直したことばという現象だったりする。わたしは『三月の5日間』を観て、すでにことば化されてしまったできごと、あるいはことば化されたできごとをさらにことば化した語りを聞きながら、ああこれは生のできごとではなくことば化されてしまった残念なできごとだ、などと思うのではなく、むしろ、自分はいつもこんな風に、誰かのことばを介してできごとに触れた気になっているのだということに改めて気づかされる。
できごとをことば化したものを語るとき、もしくはことば化されたできごとをさらにことば化して語るときに油断ならないのは、声を出すこと、語ることによって、語り手が我知らず自分の情動を揺らされてしまう点であり、語りつつあることばにその揺らされてしまった情動を我知らず乗せてしまう点だ。そもそも、語るということは、それ自体どこかものぐるおしい。語ることのものぐるおしさにほだされた語り手は、自分の語っていることばは自身の編み出したものではなく、誰か他の元話者のことばであると知りながら、語りのものぐるおしさに乗じて、情動を乗せて語ってしまうことができる。込められた情動はときに声を高め、あるいは急がせ、声の語る元話者のできごと、元話者のことばを、あたかもわたしのできごと、わたしのことばであるかのように響かせ始める。
もちろん、敏感な語り手は、語りの高揚がもたらすこうした罠に感づいている。わたしはいま、わたしではない他人の語ったことについて語っている。それはわたしの体験したことではもちろんなく、わたしにはそれを活き活きと語る権利もない。その語りの中で元話者が何か言ったとしても、その元話者に成り代わって語るのは不遜な行為だし、その語りの中で動きつつある元話者の情動は、いま語りつつあるわたしの情動と同じではない。だから、いま語りつつわたしは、あくまで平静を装いながら元話者の語りを、それが元話者のものだとわかるように語るべきなのであって、もしわたしの情動が不覚にもいささか高められ、いままさにその語られつつある元話者の情動と重なりそうになったならば、そこに違和が生じていることを表すべく「っへ」などと端々に笑いとも息漏れともつかぬ音を言い訳がましく差し挟みながら、わたしはわたしが誰かでないことを常に証明し続けなければならない。
では、もし、その不遜な行為、元話者の声の情動を自分の声の情動に重ね、むしろ元話者と自分の境界などないかのように振る舞って恥じない行為を「演じる」と呼び、その不遜な行為を許し、いや許すどころかむしろそうした行為の連なりを当たり前に成り立たせている時空間を「演劇」と呼ぶのだとしたら、「三月の5日間」ははたして「演劇」なのだろうか。
いや、話を急ぎすぎた。少しゆっくり考えよう。
直接話法と間接話法
わたしたちは、国語や英語の時間に、ことばには直接話法と間接話法というのがあるのだ、と習う。直接話法とはカギカッコ付きで誰かのことばを、できるだけその人が言った通りに「アズマくんは『いますげえビール飲みてえ』と言った」という風に引用することであり、一方、間接話法とは、カギカッコを開き、「アズマくんは、いまとてもビールが飲みたいと言った」ともとのことばを話者の視点から語り直す、という風に。
しかし、そもそも「直接話法/間接話法」という区別は西洋文法の考え方を借り入れたもので、日本語では英語ほど「直接話法/間接話法」の区別は明瞭ではない。たとえば英語では、直接話法と間接話法では、人称や時制に明らかに差が生じることが多い。He said “I’m watching TV”. という直接話法を間接話法にすると、He said that he was watching TV. となる。引用符内のIはheとなり、am は was になる。一方、日本語では主語がしばしば省略されるため、人称の変化もまた省略できる。また、直接から間接に変換するときに時制を変化させる必要がない。だから「彼は『いますげえビール飲みてえ』と言った」が「彼は、いまとてもビールが飲みたいと言った」と置き換わるとき、人称の変化は見られないし引用部分の時制も変わらない。つまり日本語では、直接話法と間接話法の差は、言い回しの違いとしては顕れうるが、文法の違いとしては顕れにくいのである。
「いますげえビール飲みてえ」は、いかにもカジュアルな言い回しなので、間接話法に言い換えたときに「いまとてもビールがのみたい」と改まるが、たとえば彼のことばがそっけなく『ビールが飲みたい』だったとしたらどうだろう。直接話法だと「彼は『ビールが飲みたい』と言った」。間接話法だと「彼はビールが飲みたいと言った」。というわけで、なんのことはない、カギカッコがあるかないかの違いを除けば、どちらも字面は同じになってしまう。
まとめると、日本語には直接話法と間接話法の違いはあるのだが、その区別は英語ほど明瞭でなく、少なくともテキストのレベルでは判然としないことがある。翻訳における日英二つの話法の違いについて詳細に論じている伊原紀子*1 は、こうした日本語の曖昧さを念頭においた上で、「直接話法とは引用された言葉(発話だけでなく心内の思惟も)が、伝達者とは明らかに違う元話者の発話らしさを帯びており、伝達の場とは異なった発話の場を提示する形式である。間接話法は他者の言葉を伝達者の言葉で置き換えて提示する形式である」と、うまく定義している。
以上、文学や言語学において直接話法と間接話法がどんな風に扱われているかを簡単に紹介したのだが、ここには一つ重要な問題がある。それは、こうした議論が、あくまで小説文などのテキストで表される話法の区別を扱っており、そこで扱われている「声」が、文字列から想起された声であり、文字列から想起された「元話者の発話らしさ」「伝達者の言葉」である、という点だ。そして、元話者のことばと伝達者のことばを区別する主たる手がかりは、カギカッコという表記である。われわれはカギカッコに囲まれたことばを見て、そこに元話者らしい声を込めようとし、カギカッコの解かれたことばを見て、そこに伝達者の声を聞こうとする。
一方、演劇では事態は全く異なる。
演劇には台本というテキストがあり、俳優はその台本をもとに声を探る。と、こう書くと、台本と俳優の関係は、小説と読者の関係に似ているように思える。しかし、大きな違いは、俳優は読み解いた「声」を、ただ頭の中で内言として鳴らすのではなく、実際にきくことのできる声として発声することだ。そして、俳優の発声した声をもとに演出家と俳優とのやりとりが始まり、台本にないアイディアが生まれ、ときには台本が(カギカッコも含めて)書き換えられることすらある。
そして何より、観客は台本というテキストを読むのではなく、まず俳優の声をきく。劇の中で実現された声をもとに、そこで達成された話法を感じる。それはもしかしたら台本上はカギカッコで記された直接話法かもしれないし、カギカッコを欠いた間接話法かもしれない。しかし観客の目の前には、カギカッコの有無のように話法を二分する記号はない。観客は直接間接という境を与えられるかわりに、実際に発せられている声を手がかりにして、いま語っている者が誰なのか、これはどのような話法なのかを探り当てることになる。
声の近接話法
ある声が直接話法にきこえるか間接話法にきこえるかは、単に言い回しの差だけではなくて、そこに込められた抑揚や強弱や速さ(こうした言語の内容以外の要素を「プロソディ」という)、そしてプロソディから喚起される情動の度合いによって左右される。たとえば、「彼は、ビールが飲みたいと言った」という文を読むとき、「ビールが飲みたい」という部分に低くくぐもるようなゆっくりした声をあてるとき、それは少しく直接話法に近づくだろう。話法の差は地の文と引用部分のプロソディの差によっても左右される。たとえば、「ビールが飲みたい」という部分が特徴的な抑揚を持たずごく軽くすばやい調子だったとしても、地の部分がゆったりと声を張ったものだったとすれば、やはり直接話法らしさが出るだろう。
そして、舞台において話法のあり方を決めるのは、声のプロソディだけではない。たとえば、徳川夢声は落語家の操る声と話法の変化についてこんな風に書いている*2。「客が鼻先に座ってゐるから、自然、客席との交流が起り、直接話法的な、親しみのある話術を生ずる」。「直接話法『的』」と少しぼかしているところが、声によって話法を操る弁士であった徳川夢声ならではの微妙な現場感覚を表している。つまり、徳川夢声は、すぐそばに見える客に視線を送りながら、その視線の変化によって、直接話法「的」な調子を少し帯びさせ、元話者と伝達者との境を危うくする感覚をここで示しているのである。ここで注目すべきは、この直接話法「的」感覚が、単に語り手の声のコントロールのみによって生じるのではなく、観客を見ながら発話するという行為によって生じている点だ。つまり、徳川夢声はこの一節で、話法の変化を生じさせる重要な要素として、客という「聞き手」の存在を挙げているのである。ここで夢声が簡潔に指摘している、演者の視線や姿勢の変化、そして「聞き手」の存在を変化によって話法を揺らす知は、これから『三月の5日間』を考える上で重要な問題となるだろう。
チェルフィッチュの『三月の5日間』は、誰かから聞いた話の劇である一方、聞いた話を話すうちに伝達者である語り手が次第に元話者との区別を危うくしていく劇である。それはこの劇の台本が、おそるべき緻密さでカギカッコを制御していることからも伺いしれる。伝達者らしさと元話者らしさを揺らし続ける点で、『三月の5日間』は「話法の劇」ということができるだろう。そして先にも述べたように、われわれ観客は台本によって話法に出会うのではなく、俳優の声によって話法に出会う。俳優たちの実現する声の変化には、台本のテキストだけでは明らかにならないさまざまな話法のグラデーションが仕組まれている。その細部に分け入っていくためには、直接話法/間接話法という二分法では足りない。そこで、これら直接話法とも間接話法ともつかない話法、すなわち元話者の言葉と伝達者の言葉とのあいだを揺れ動く話法を、以後「近接話法」と呼ぶことにしよう。そして、『三月の5日間』が、どのような近接話法を用いることによって、「話法の劇」をスリリングなものにしていくのかを、次回以降考えていくことにしよう。
*1 伊原紀子 (2004) 「翻訳における話法 : 異化・同化ストラテジーの観点から」. 神戸大学大学院総合人間科学研究科博士論文
*2 徳川夢声 (1947)「話術」白揚社