話法の劇、もしくは近接話法としての『三月の5日間』(その2)

日常会話や伝統芸能の伝承場面、介護などで、人と人とが空間や時間をどうとらえ、どのように相互に思考するかを、発語とジェスチャーの微細な構造から探り、研究する細馬宏通(人間行動学者)。過去のチェルフィッチュ作品の映像を通して、「身体」と「発話」を微に入り細に入り分析した、新しいチェルフィッチュ論。

迷宮的な冒頭

 『三月の5日間』では、観客の頭の中では「元話者」と「伝達者」が何度も揺るがされる。この揺らぎを「近接話法」ととりあえず呼んだところで前回は終わったのだった。では、チェルフィッチュ独特の近接話法が、実際にどのように立ち現れてくるのか。その時間の流れを追うために、今回は『三月の5日間』の最初の部分を記した脚本にあたりながら、そこで企てられている話法の変化を追っていこう。というのも、この劇の冒頭は何度きいても、語りの迷宮に入り込んだような不思議な感覚を引き起こさせるからだ。

 冒頭の脚本は次のようになっている。

男1:それじゃ三月の5日間ってのをはじめようって思うんですけど、第一日目は、まずこれは二〇〇三年の三月の話っていう設定でこれからやってこうって思ってるんですけど、朝起きたら、なんかミノベって男の話なんですけど、ホテルだったんですよ朝起きたら、なんでホテルにいるんだ俺、とか思って、しかも隣にいる女が、誰だよこいつ知らねえ、っていうのがいて、なんか寝てるよとか思って、っていう、でもすぐ思い出したんだけど、あきのうの夜そういえば、っていう、あそうだきのうの夜なんかすげえ酔っぱらって、ここ渋谷のラブホだ思い出した、ってすぐ思い出してきたんですね、((凄い長い間))

 まず一読して目立つ特徴がある。この長いフレーズには句点が欠けており、読点だけによって構成されている。そのため、文字面を見ると全体が平坦な印象を与える。そして、フレーズのあちこちには「って」「とか」という引用の終わりを示す助詞、そして「思う」という引用を示す動詞が多用されており、それでいて、「思う」の主語がまったく見られない。これらの助詞や動詞は、このフレーズに何らかの「話法」があることを示している。だがその一方で、直接話法や間接話法が前提としている、語りを語りたらしめる文語的な口調は用いられておらず、引用する側のことばもされる側のことばも、ほとんど同じ話し口調になっている。それはつまり、ここで用いている話法は、元話者と伝達者との境をあらかじめわかりにくくしていることを意味する。
 その語りの魅力を考えるとき、まず誰もが注目するのは最初のフレーズだろう。「それじゃ三月の5日間ってのをはじめようって思うんですけど」「第一日目は、まずこれは二〇〇三年の三月の話っていう設定でこれからやってこうって思ってるんですけど」。このように劇の始まりでいきなりその劇のタイトルを告げ、その設定を告げるやり方、劇の外側から劇を語るやり方は、いまやチェルフィッチュ劇の常套句として人口に膾炙している。けれど、わたしの見るところ、少なくともこの部分ではまだ、近接話法は始まってはいない。確かに人を食った始まり方だけれど、劇の外側と内側ははっきり区別されており、読者は話の伝達者と元話者の区別を揺るがされているわけではない。そして、続く「朝起きたら」ということばも、前置きから物語の中へとスムーズに誘うような導入であり、さほど奇抜なものではない。

 問題はむしろその次だ。
 「朝起きたら、なんかミノベって男の話なんですけど、ホテルだったんですよ朝起きたら、」

 「朝起きたら」のあとに、読点の間が置かれる。間といってもそこには「あ」とか「じゃなくて」といった言い直しに特徴的な間投句はないため、次のことばを発することを少し逡巡しているようには見えても、何か間違ったことを言ってしまったという風には読めない。ところが男はそこから、まるで風呂に入ろうとした足をいきなり引っ込めるように「なんかミノベっていう男の話なんですけど」と断りを入れる。そして「ホテルだったんですよ朝起きたら」と言ってから、また読点の間を置く。その第二の「朝起きたら」に続く奇妙な間が、第一の「朝起きたら」に続く奇妙な間を思い起こさせるので、読者はようやく、ああ、この第二の「朝起きたら」はさっきの第一の「朝起きたら」の繰り返しじゃないか、ということは、「なんかミノベっていう男の話なんですけど、ホテルだったんですよ朝起きたら」はさっきの「朝起きたら」の言い直しだったのだな、と分かる。では、なぜ言い直したのか、おそらく第一の「朝起きたら」を言ってから、その言い出しにはなんだか伝達者らしくないところがあるので慌てて「なんかミノベっていう男の話なんですけど」と断りを入れて第二の「朝起きたら」を言い直したのではないかこの男は。

 このようにして、読者は、「朝起きたら」の繰り返しを通して、男1の「元話者」性と「伝達者」性の揺らぎに触れる。これが『三月の5日間』における「近接話法」の始まりだ。一連のセリフに埋め込まれた二度の「朝起きたら」を経験することによって、わたしたちは男が放つフレーズの繰り返しに油断ならなさを感じ始める。彼のことばの繰り返しは、単なる冗長さではなく、伝達者の伝達が元話者性によって脱臼させられているサインなのではないか。

「とか思って」「ていう」

 そして、読み進めるにつれ、「朝起きたら」の繰り返しはまさしくこれから起こることの前兆であったことがわかる。このあと脚本は、「思う」という動詞、そして「とか」「っていう」という引用を示す助詞を次々と繰り返して読み手を翻弄する。読者は、「思って」いるのは誰なのか、「とか」「っていう」と言い連ねるこの語り手は「とか」「っていう」と言われている者とどういう関係にあるのか、それは同一人物なのか別人なのかを推測しようとして、頭の中がさながら話者捜しの大運動会になってしまう。

 読者がいかに男1の台詞に困惑させられるかについて考えるために、男1の台詞の一部について、以下のような国語の入試問題風のものを考えてみよう。

―――――――――――
 朝起きたら、なんかミノベっていう男の話なんですけどホテルだったんですよ朝起きたら、なんでホテルにいるんだ俺、(a)とか思って、しかも隣にいる女が、誰だよこいつ知らねえ、(b)っていうのがいて、なんか寝てるよ(c)とか思って、(d)っていう

Q: 上はチェルフィッチュ『三月の5日間』の冒頭の一部である。文中には(a)~(d)に引用を示す助詞が用いられている。このうち(d)の「っていう」はどこからどこまでを引用しているか答えなさい。
―――――――――――

 読者はおそらく(d)の直前を中心に、上の文章の空間的にあちこち探索するだろう。まず目につく読点を手がかりにすると、「なんか寝てるよとか思って」あたりが答えになりそうな気がする。しかし、ここにはそういう短絡を許さない不自然なひっかかりがある。それは、「とか思って、っていう」という、奇妙な引用の入れ子だ。どうやら(c)「とか思って」は直後の(d)「っていう」より引用の階層が1段深くなっているらしい。では、この(c)「とか思って」と同じ階層はどこまで広がっているのか。読者は少し遡って、まず「しかも隣にいる女が、誰だよこいつ知らねえ、(b)っていうのがいて」が怪しいと思う。なぜならそれは内容的に、「なんか寝てる」女の話だからだ。

 いや、しかしまだ遡ることはできないか。「なんでホテルにいるんだ俺、(a)とか思って、」もまた怪しい。なぜならこの(a)「とか思って、」というフレーズは(c)「とか思って、」でも繰り返されており、あたかも(a)と(c)は同じ階層上に併置された双子の姿をとっているからだ。いやいや、さらに遡るなら、「朝起きたら」はおそらく(a)「とか思って」にかかるのであり、そうすると、先に検討した「朝起きたら」の言い換えもまるごと(a)「とか思って」にかかるのであり、ということは、もう少し広くとって、

 「朝起きたら、なんかミノベっていう男の話なんですけどホテルだったんですよ朝起きたら、なんでホテルにいるんだ俺、とか思って、しかも隣にいる女が、誰だよこいつ知らねえ、っていうのがいて、なんか寝てるよとか思って、」

 をまるごと(d)「っていう」が受けていると考えたほうがよいのかもしれない。以上を整理して先の語りの構造の骨を示すなら以下のようになるだろう。

 「朝起きたら、(伝達者の解説)、Aとか思って、しかもBとか思って、っていう」

揺らされる近接話法

 しかし、ここまで読み解いてもまだ安心できない。この引用を示す(d)「っていう」のフレーズは言いさされたままで、何の名詞に着地することもなく宙吊りにされたまま、次なるフレーズに無理矢理接続されている。考えてみれば、なるほどわたしたちはこんな曖昧な「っていう」を語りの語尾として使うことがないわけではない。「…でおじいさんとおばあさんは幸せに暮らしましたっていう」「…実は正体はただの枯木でしたっていう」。こんな風に語尾をフェイドアウトさせる語り終え方を、わたしたちはきいたことがないわけではない。では、(d)「っていう」もその手の語り終え方なのだろうか。だとしたら(d)「っていう」は伝達者のことばであり、その直前の(c)「とか思って」が元話者のことばということなのだろうか。しかしまだ、話はどこにも行き着いていない。それどころか、このあとの語りはさらに奇天烈になる。

 「でもすぐ思い出したんだけど、あきのうの夜そういえば、っていう、あそうだきのうの夜なんかすげえ酔っぱらって、ここ渋谷のラブホだ思い出した、ってすぐ思い出してきたんですね」

 異様なことに、わずか数行の中に「思い出す」という動詞が三度も繰り返されている。しかもよく見ると、三つの「思い出し」は少しずつ差異が設けられている。最初の「思い出したんだけど」は過去形であり「思い出した」行為自体を過去のものとして扱っているのに対し、次の「思い出した」はまさにいま思い出したことを表している。そしていちばん油断ならないのは最後の「すぐ思い出してきたんですね」で、これは進行形でありながら、思い出しつつある状態を過去のものとして語っている。さらに、最初の「思い出したんだけど」が「だ/である」調なのに対し、最後の「思い出してきたんですね」は「です/ます」調になっている(それは冒頭のやけに丁寧で傍観者的な「なんかミノベっていう男の話なんですけど」や「ホテルだったんですね」という伝達者としての語調を思い出させる)。

 「思い出したんだけど/思い出してきたんですね」の微妙な語調の差から、読者は元話者と伝達者の気配とを読み取る。それだけでなく、「思い出したんだけど/思い出した」の微妙な語調の差から、元話者の二つの時間の差をも読み取る。どうやら元話者は、いまホテルにいるというよりは、すでにホテルではないどこかに居て、そのホテルではないどこかから、そのホテルでのできごとを回顧しているのではないか。その回顧の口調が「思い出したんだけど」という過去形に漏れているのではないか。そして、伝達者は、単に元話者のホテルに居た時間のことを語っているというよりは、ホテルに居たことを回顧している元話者の語りを語っているのではないか。つまりこの語りには、元話者の現場での内言と、それを物語る元話者の語りと、さらにそれを伝える伝達者の語りが混在しているのではないか。

 そう考えると、先に検討した「(a)とか思って」「(b)っていうのがいて」「(c)とか思って」の違和感のありかがわかってくる。これらはすべて、ホテルのできごとを回顧する元話者の語りなのだ。読者がひっかかった「(c)とか思って、(d)っていう」という二重の引用の違和感は、単に元話者と伝達者が入れ子になっていることからくるのではなく、元話者の現場(ホテル)での内言が元話者の語りへと取り込まれ、さらにそれが伝達者の語りへとすぐさま取り込まれることから来る違和感だったのだ。

 そして、読者は最後の「ここ渋谷のラブホだ思い出した、ってすぐ思い出してきたんですね」というフレーズが、なぜこちらをおいてけぼりにするような奇妙な響きを持っているのかをようやく理解する。このフレーズは、元話者の現場での内言を元話者の語り経由で伝達者の語りへと取り込むのではなく、元話者の現場での内言を伝達者の語りへと直接取り込んでいるがゆえに、あっけにとられるのだ。

 こうして検討していくと、どうやら『三月の5日間』の冒頭に埋め込まれた近接話法は、単に元話者と伝達者の境を揺らす話法ではない。そこで用いられていた近接話法とは、元話者の内言と元話者の語りと伝達者の語りが、引用を示す助詞の多用によって複雑な入れ子を作りながら揺らされていくものだったと言えるだろう。

改めて『三月の5日間』冒頭の映像

「読者」から「観客」へ

 さて、わたしはここまであえて、劇の「観客」ということばを用いずに、脚本の「読者」という言い方を用いてきた。読者という立場をとったおかげで、脚本の字面をたどりながらなんとか『三月の5日間』の冒頭、「ホテル」が「渋谷のラブホ」として思い出されるまでの長い道のりを、なんとか読み解くことができた。しかし、わたしたちは劇場において「読者」ではいられない。「観客」としてのわたしたちは、こんな風に脚本を空間的に行き来しながら読書としての劇を体験するのではない。劇を見ながら俳優の声をたどり、伝達者の語りをきいていたつもりがいつのまにか元話者の語りのただなかに連れて行かれ、この次はどこに連れていかれるのかもわからぬままその声からその連れていかれる先を予測し、予測を裏切られ、そして思わぬ地点に出る。もちろん、「観客」は頭の中の作業記憶の限りを尽くし、少し前のセリフを頭の中で反芻しながら、いま語られつつあるセリフと照らし合わすこともできるが、それは空間に拡げられた文字列のように自由に行き来できるようなものではない。劇の声は時間的な体験なのだ。

 では、この脚本空間に埋め込まれた複雑な入れ子構造を、俳優はどうやって時間の上で形作っていくのか。「観客」はその時間をどう構成していくのか。そのことについてこれからさらに山縣太一の声を追いながら考察を続けようと思っているし、それだけでなく、そこに動作が伴うこと、聞き手が伴うことでわたしたちの元話者と伝達者に対する区別はどう揺らぐかということも語ろうと思っているし、それにしても松村翔子のあの一人語りの魅力はなんなのか、彼女は脚本のカギカッコをどう読み解いているのか、その動作はカギカッコをどう分節しているのか、つまり演出と俳優の演技によって脚本における近接話法はどうリアライズされるのかというような話もしようと思っているのだが、その前に、2017年6月19日に『部屋に流れる時間の旅』を見てしまったわたしは、その話をしなければならない。

  • 細馬宏通

    1960年兵庫県生まれ。京都大学大学院理学研究科博士課程修了(動物学)。現在、滋賀県立大学人間文化学部教授。日常会話における身体動作の研究を行うかたわら、日常会話、伝統芸能の伝承場面、介護場面などで、人と人とが空間や時間をどうとらえ、どのように相互に思考するかを、発語とジェスチャーの微細な構造を拾い上げることで探っている。漫才、じゃんけん、カードゲーム、ページめくり、演劇の稽古、井戸端会議など、扱う場面は近年ますます多様になっている。著書に『介護するからだ』(医学書院)、『うたのしくみ』(ぴあ)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くか』(新潮選書)、『絵はがきの時代』『浅草十二階』(ともに青土社)などがある。

関連記事

関連作品