人はいかに幽霊になるのか『部屋に流れる時間の旅』のこと(1)

目を閉じる、という体験の意味するところ

 『部屋に流れる時間の旅』の冒頭は、観客に対する奇妙な指示で始まる。一人の女優がマイクの前に立ち、こんな風に言う。

 「『部屋に流れる時間の旅』が、今から始まります。旅を始めるために、今からわたしが『目を閉じてください』と言ったら、その次にわたしが『目を開けてください』と言うまで、そのときは英語でも “Please open your eyes” と言います、そのときまで、目を閉じていてください。」

 妙に念が入っている。この劇では、すべての台詞の英訳字幕が舞台の上部に投射されており、この指示もまた、英語で表示されていた。わざわざ「英語でも”Please open your eyes” と言います」と断っているのは、いったん目を閉じてしまったなら英語話者には字幕なしの音声しか頼るものがないからだろう。しかし、そこまで気を遣わなくともよいのではないか。たとえ英語話者であっても、目をつぶったあとに日本語で何か言われたなら、それが目を開ける合図だと分かるだろう。この説明はいささか丁寧に過ぎ、丁寧に過ぎる分、何か意味ありげにきこえる。

「では、目を閉じてください。」

 意味ありげなこの指示が何を意図していたのかはわからない。わからないが、わたしは素直に目を閉じた。もし閉じなかったら、何が見えていただろう? いや、おそらく大事なのは「何が見えたか」よりも、もっと表面的なことだ。

 なぜこの劇で観客は最初に、目を閉じるよう依頼される体験を経る必要があったのだろう。

幽霊は社会的存在だ

 『部屋に流れる時間の旅』は、幽霊譚としてひとまず捉えることができるだろう。
 しかし、誰かがいかにも幽霊然とした衣装で登場するわけではない。舞台には帆香と呼ばれる女性が立っているのだが、彼女の台詞は格別、幽霊らしいわけではない。

「とてもしあわせ。しあわせな気持ちが、褪せていかないし、減ることもない。ずっと続いてる。わたしたちのなかで。そう思わない?」

 彼女が幽霊らしさを増していくのは、実は彼女の台詞以上に、後ろ向きで座っている男性、一樹の振るまいのせいだ。一樹は椅子に座ったまま、帆香が問いかけで終えることばに答えようとしない。そのことで、帆香のことばはモノローグとなる。ことばの形式がモノローグなのではない。一樹の沈黙によってモノローグになっているのだ。さらに、一樹はわずかにだらりと下がった手足の一部を痙攣させる。痙攣させながら、椅子から立つことはない。そのことで、彼は自分の意志で椅子にいるというよりは、あたかも夢から出ようとしながら夢にうなされて体を微動させる者のように、椅子に座らされながら体を微動させているように見える。

 そしてわたしは、子供が見知らぬ人の素性をその人を見る親の顔色によって判断するように、一樹の行為によって帆香を「幽霊」として判断する。

 幽霊は社会的存在なのだ。

 社会的に幽霊だと判断すると、幽霊の小さな所作の一つ一つがいちいち幽霊らしく見えてくる。カーテンの襞を引き寄せるように体を硬くして立つのも、手首を曲げて太ももに当てながら体を揺らすのも、幽霊らしい。これらの動きは、チェルフィッチュのこれまでの劇でしばしば用いられてきた、自分の身体に自分をねじ込むような所作と似ていると言えなくもない。しかし、チェルフィッチュの他の劇では、これほど所作が幽霊じみて見えたことはなかった。

観客が選んだ過去と選ばなかった過去

 岡田利規は、ちょうどこの『部屋に流れる時間の旅』を書いた後、「幽霊の生は大事な問題だ」という論考を記している。彼は「幽霊は人類の偉大な発明品だ」として、以下のように続ける。「私たち人間は自らの想像力を、幽霊というコンセプトに基づいて用いることによって、現在のこの時間を構成する要素の中に〈過去〉が必ず含まれている、という事実を感覚のレベルで確かめることができる。過去をこのような生々しい仕方で 形象化できるというのはとても便利なことだ。」
(viewpoint No.77/ 26 Dec 2016/ http://www.saison.or.jp/viewpoint/01.html)

 では舞台の上に俳優がいて、それが過去の形象化されたものであることを知らせるためにはどうすればよいか。簡単な答えは、舞台上の俳優と俳優との間に過去と現在を演出してやる、というものだろう。しかし、それではまだ幽霊は、舞台上の誰かの過去であるにすぎない。観客にとってそれが単に舞台の上のみならず、観客自身の過去の形象化であると感じさせるためには、幽霊が観客の過去とつながっていなくてはならない。

 わたしにとってそれは「目を閉じる」という動作だった。

 椅子に縛り付けられたように座ったまま痙攣していた一樹は、初めて椅子から立ち上がると(そういえば観客であるわたしが目を開けたときから、ずっと一樹は椅子に座ったままだった)、帆香に近寄ってこう言う。

「ねえ、帆香。」
「なに?」
「目を閉じてくれる?」

 このときわたしは、冒頭でありさを演じる女優が目を閉じるように言ったこと、言われるままに素直に目を閉じた自分のことを思い出していた。そしていま、まさに自分が過去に求められていたことが眼前で繰り広げられていることが怖くなった。あそこで立って、目を閉じるよう言われている帆香、あれはまさに、過去のわたしではないか。
 そして、続く帆香の反応はさらにこちらを静かに驚かせるものだった。
 
帆香「どうして?」
一樹「うん。目を閉じて。」
帆香「どうして?」

 帆香は、一樹の頼みに問いを投げ返し、目を開けたまま話し始めるのである。

 わたしは、目を閉じてと言われて目を閉じない選択肢、わたしが選ばなかった選択肢が目の前で選ばれるのを観ている。わたしが選ばなかった過去が帆香の行為となって、現在に流れ込んでくる。まるで現在のわたしをあざ笑うかのように。

 そして、帆香は、目を開けたままたっぷり話してから、一樹の頼みからじゅうぶん時間的に離れたところで、頼みから切り離された自発的な所作をするかのように、目を閉じる。すると、ありさが現れる。このありさの出現は、物語の表面的な筋書きからすれば、帆香の静かに迫るようなモノローグがいったん停止し、将来の恋人が出現するという、明るい未来への予感と安堵の場面として感じられてもよさそうなはずだ。しかし、そんな安心感はこの場面には微塵もない。むしろ、帆香の目を閉じる力によって、ありさはここに召喚されたかのではないか。ちょうど、わたしがありさを演じる女優に「では、目を閉じて下さい」と言われて目を閉じたあと、いつのまにか椅子に座っている男が現れていたように。そして、わたしはここでもまた、わたしの選んだ過去と選ばなかった過去とを見させられていることに気づく。帆香はまさにいま、わたしのように目を閉じている。彼女の姿は、過去のわたしの似姿だ。そしてわたしがもし冒頭で指示に従わずに薄目を開けていたなら、こんな風に、それまではいなかった者が舞台にやってくるのを目撃したはずなのだ。

過去を形象化する幽霊的な現象

 幽霊という現象において重要なことがもう一つある。それは、幽霊の出現する場所には、出現するべき理由があるということだ。夢幻能において、幽霊が歌枕に現れることからもわかるように、幽霊は所構わずでたらめに現れるのでない。必ず過去のできごとの起こったその場所に現れる。言い換えれば、わたしたちが幽霊的なものを感じるためには、単に過去のできごとが目の前に再現されているだけでは足りない。そのできごとが、今この場所と結びついていることが必要となる。

 なぜ、ありさが「ありさ(を演じる女優)」として冒頭に登場しなければならなかったのか。なぜ彼女は「目を閉じて下さい」と観客に指示したのか。それは、いま舞台の上で一樹が帆香にしていること、そして帆香が一樹にしていることを、彼女が過去にこの劇場で観客にしたことと結びつけるためではないだろうか。観客はありさ(を演じる女優)との相互行為の中で、ある特別の体験を強いられる。その体験を、この劇場で、眼前の劇において、過去として想起する。その結果、わたしたちは、過去に起こったありさ(を演じる女優)とわたしたちの関係を、帆香と一樹の関係に見出し、彼らのやりとりを、わたしたち自身の過去を形象化する幽霊的な現象として見出すのである。
(続く)

  • 細馬宏通

    1960年兵庫県生まれ。京都大学大学院理学研究科博士課程修了(動物学)。現在、滋賀県立大学人間文化学部教授。日常会話における身体動作の研究を行うかたわら、日常会話、伝統芸能の伝承場面、介護場面などで、人と人とが空間や時間をどうとらえ、どのように相互に思考するかを、発語とジェスチャーの微細な構造を拾い上げることで探っている。漫才、じゃんけん、カードゲーム、ページめくり、演劇の稽古、井戸端会議など、扱う場面は近年ますます多様になっている。著書に『介護するからだ』(医学書院)、『うたのしくみ』(ぴあ)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くか』(新潮選書)、『絵はがきの時代』『浅草十二階』(ともに青土社)などがある。

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