俳優インタビュー:板橋優里(1993)

撮影:竹久直樹

先生が不条理劇で、先輩たちが現代口語劇

山口博之 :

2003年3月の頃は、どんな子どもでした?

板橋優里 :

10歳ですね。バスケをやっていました。私、転校生とか転勤族の子と仲良くなる率が高くて、みんな転校してきて仲良くなって、数年したらバイバイみたいな。仲良くなった子が、結果転勤族だったということも。だから結果地元に友だちがあまりいないです。うちの家マンガ禁止だったので、テレビばっか観てました。今でもその頃のドラマとかすごく印象に残ってて、夜更かしして「冬のソナタ」を母と観たり、その時間がすごく楽しかったです。

高校まで仙台にいたんですよね?

そうです。ずっと役者をやりたかったんですけど、親に反対されてずっとできなくて。とりあえず家を出ないと何もできないと思って、申し訳ないんですけど、実家から遠い大学を選んで入りました。川越にある尚美学園大学という、当時はなかったのですが舞台表現学科が最近出来た大学です。そこで適当に演劇サークルに入ったんですが、そしたらガチな演劇サークルで、若林一男さん(http://tetsubin28.com/)という顧問の先生がいて、別役実とか不条理劇をやる方でして。授業でもサークルでも、その方からいろいろ教えていただきました。

若林さんはどんな方だったんですか?

埼玉県立秩父農工科学高等学校という、高校演劇では知られた学校なんですね。ずっとそこの顧問をしていた方だったんです。

なるほど、では授業もサークルも不条理劇を?

そうです。いやでも、サークルの先輩たちは会話劇や現代口語劇が好きな人たちだったので、五反田団とかハイバイとかをリスペクトしてやってました。でも先生が不条理劇で、先輩たちが現代口語劇だったので、どっちも楽しかったんですけど、今考えると、結構振り幅ありましたね。

とりあえずと思って入った学校だけど、そのサークルが楽しくて、4年間演劇をやってきた。

はい、結局。

外部で演じることもあったんですか?

先輩達と、シアターグリーン学生芸術祭というのに出たり、東洋大学出身のコメディをやる劇団の公演にも出ました。結構楽しくやらせてもらいました。

お昼休み絶対図書館に行くみたいなキャラ

地元にいる頃から役者をやりたいと思ったのは、何がきっかけだったんですか?

実は当時演劇を観たことはなくて、高校の演劇部も入ろうと思ったらオタクがいっぱいいる系の演劇部で、あれ、こういうのじゃないな私がやりたいのは、と思って入らなかったんです。

では、テレビとかの影響ですか?

そうですね。私、よく夕方に再放送してるドラマが好きで、学校から帰ってそれを母と一緒に観てて、中でも「恋ノチカラ」の深津絵里さんがすごく好きで、その影響が大きいかもしれないです。

なるほど。そういうのを観て役者になりたいなーと……?

た、多分…

親に反対されるくらいやりたいと思っていたことなんですよね?(笑)

そうです、そうです。それまで何やってもしっくりこないというか、勉強もできないし、なんですかね……。得意なものがなにもなくて、バスケもやってたけど、お姉ちゃんがやってるからだったし。何やりたいのか自分でも分からなくて、でも役者は超漠然とやってみたいと思ってました。

具体的に役者のイメージがあったわけじゃなかった。強い興味を示したわけでも、部活をしていたわけでもないのに、やりたい!と親に説得をしようと(笑)。

そうなんですよ。当然難しい…「何で役者やりたいの?」って聞かれても自分でもよく分かってないから答えられないし。

撮影:竹久直樹

では、最初の俳優経験は大学に入ってからなんですね。

はい。だから我慢して溜まっていたものが爆発しちゃって、やばかったです。世界、超楽しいじゃん、みたいな。演じることの恥ずかしさとかもまったくなく、楽しくて仕方なかったです。高校まで、机でひとり本を読んでいる人みたいな、お昼休み絶対図書館に行くみたいなキャラだったんです。運動部、ギャル、オタクってかなりはっきり分かれてる学校で、どこにも属せないみたいな状態で、じゃあいいや私はひとりでいるって決めて、ひとりでお昼ごはんとか食べてました。だから大学に入って、仲間もできて超楽しいって。今も超楽しいです。よく学生時代に戻りたいとか言う人いるじゃないですか。もうそれ全然わかんないみたいな。どんどん楽しくなってます。

自分にとってはちょっと異質なものという印象

先輩やハイバイや五反田団をやっていて、チェルフィッチュもその先にあったと。

そうです。わっしょいハウスとかに出ていた俳優の小田尚稔さん(http://odanaotoshi.blogspot.jp/)という方が自分でもカンパニーをやりはじめて、小田さんが私の先輩の劇団に出ていた繋がりで小田さんの芝居に出ることになったんです。小田さんの演劇がチェルフィッチュをリスペクトした様な作品で、ひとり出てきてわーっと喋って、下がって次がまた喋ってみたいなモノローグが続くタイプの演劇。それに出たことで、いろいろチェルフィッチュのことも知りました。大学の図書館にチェルフィッチュのDVDがあったので、そこで観れるものは観ていました。

会話劇やチェルフィッチュ後のタイプの演劇に出ていて、チェルフィッチュ自体はどう観ていました?

私が最初思っていたのは、現代口語演劇の青年団があって、その下に青年団リンクって感じでありますよね。その青年団リンクの並びにはいない、近いけど離れたところにいる、みたいな。現代口語演劇の枠の中にはいるという感じで観ていました。学生時代は会話劇しかやってこなかったので、自分にとってはちょっと異質なものという印象でもあったかな。

はじめてみた作品は?

『現在地』だったと思います。おぉと思いながら観てはいたんですが、あんまり覚えてないんです……。難しくてよくわからないという印象でした。いまの自分のスペックでは処理できないというか、自分がいま持っている演劇の言葉では言語化できなくて。

撮影:竹久直樹
撮影:竹久直樹
撮影:竹久直樹

観られている快感もあります

仲間ができた楽しさがあったとお話がありましたけど、演じること自体の楽しさはありました?

ありました。元々表現することが好きだったというか、図工の時間とか(笑)。何かを自分で表現する時間がやっぱり好きで、縛られたくなさというか、普段ガッと押さえられているものの発散になるときもあるし。

演じることでストレスを発散できるんですね。

観られている快感もありますね。溜まっているものが、演じることに向けて出ていくというか、だから逆に嫌なことがあるとバネになるというか、嫌なことがあっても活かせるというか、浄化するというか。

なかなか面倒な(笑)。不条理劇や会話劇から岡田さんの演劇にスムーズに入れましたか?

そうですね。どう違うかというと全然違うんですけど、初め岡田さんの言っていることが自分に理解できるのか不安だったんですけど、あ、言葉が分かるな、って豊橋で合宿した時に思って、そこからは楽しくてしょうがないです。

岡田さん的な想像力を使って演じるという方法はどう?

知っていたけど一番に重要視していなかったというか、音と間でどうにかしてたというか、おもしろいって感じるものと、おもしろくないって感じるものの違いって本当にわりとそこだよなって思いました。想像があるかないか、今まで見えなかったものが見えるようになってきて、それまでも演劇は楽しかったんですけど、さらに楽しくなった感じがします。

撮影:竹久直樹

お客さんの脳みそを掴んでグリっとできる

岡田さんへのインタビュー(https://chelfitsch20th.net/20170305/)で、今回のオーディションで受かった人が、今後役者を続けていかなくてもいいと思っていると話していましたけど、板橋さんは役者をやり続けますか?

はい、やりたいです。でもそれだけで生きていくのは大変だよねー……って。

演劇が持っている社会への役割や可能性みたいなものは考えますか?

かなりあるんじゃないかと思っています。でも私は地方に住んでいたということもあってすごく思うんですけど、演劇を観る人はかなり限られていて、そこだよなと思ったりもします。岡田さんが前に、お客さんの脳みそを掴んでグリっとできるって、そうゆうこと言ってて、脅迫じゃないですけど、すごいことじゃないですか、価値観を変えられるというか。だからこそ今回は、本当に色んな人に観てほしいですね。でも、演劇ってなかなか難しいですよね(笑)。

演劇を観る機会の少ない地方から出てきた人として、地方で演劇がもっと観れる環境があるといいですよね。たくさん演劇があるとわかれば、親を説得するのも可能性出てきますしね(笑)

そうです、そうです! 地元の仙台を含めて、バンバン地方でやりたいですね。

撮影:竹久直樹

板橋優里(いたばし ゆり)
1993年生まれ、宮城県出身。尚美学園大学総合政策学科に入学し大学から演劇を始める。大学卒業後、小田尚稔の演劇、ぱぷりか、ウンゲツィーファ、第27班、アナログスイッチ等に出演。

How We Make It

関連作品