緊急レポート『三月の5日間』リクリエーション版

日常会話や伝統芸能の伝承場面、介護などで、人と人とが空間や時間をどうとらえ、どのように相互に思考するかを、発語とジェスチャーの微細な構造から探り、研究する細馬宏通(人間行動学者)。過去のチェルフィッチュ作品の映像を通して、「身体」と「発話」を微に入り細に入り分析した、新しいチェルフィッチュ論。

(今回は、『三月の5日間 リクリエーション』を観劇した直後の速報レポートです。)

『三月の5日間』リクリエーション(KAAT神奈川芸術劇場)

 終演後、感に堪えないように「おもしろかった」という声がきこえた。明らかに『三月の5日間』を初めて見たことがわかる口調で、うらやましくなった。この劇を初めて見る経験は一度しかできない。
 わたしはすでにDVDでその経験をしてしまっている。それでも、この「リクリエイテッド版」を舞台版で初めて見るという経験に間に合ったのは幸運だった。結論から書こう。これは『三月の5日間』の初演や再演を見た人にとっても、忘れがたい劇となるだろう。ここでは、主に2006年の再演との差異に注意しながら、その印象を取り急ぎ書きとどめておきたい。

意外なはじまり

 過去の上演を覚えている人は、まず冒頭からして驚くのではないだろうか。なぜなら最初に登場するのが板橋優里であり、彼女はラフな口調とはいえ、明らかに女性的な声で語り出すからだ。

 この劇は、語り手が誰か別人のことを話すうちになぜかその別人の声をまといだすという、奇妙な話法を持っている。そしてその話法には「俺」と言えば男性、「私」と言えば女性、という風に、多分に日本語に埋め込まれたジェンダーの区別が関わってる。たとえば冒頭の台詞で「なんでホテルにいるんだ俺、とか思って」というときに、「俺」ということばは明らかに男性の内言であり、それを男性の俳優が語るとき、それは語り手自身の内言なのか、それとも誰か別人の内言なのかが曖昧になる。「俺」という一人称を男性の語り手が語ることが、声の曖昧さを生む重要な鍵になっているのだ。ところが、今回のリクリエーション版では、この冒頭の場面をあえて女性の声で語らせる。大胆な変更だ。そしてこの変更に伴って、脚本には重要な変更がほどこされている。

初演版
「朝起きたら、なんかミノベって男の話なんですけど、ホテルだったんですよ朝起きたら、なんでホテルにいるんだ俺、とか思って、しかも隣にいる女が、誰だよこいつ知らねえ、っていうのがいて、なんか寝てるよとか思って、っていう、でもすぐ思い出したんだけど、あきのうの夜そういえば、っていう、あそうだきのうの夜なんかすげえ酔っぱらって、ここ渋谷のラブホだ思い出した、ってすぐ思い出してきたんですね、…」

リクリエイテッド版
「朝起きたら、あ、これはミノベくんって人の話なんですけど、ホテルだったんですね朝起きたら、あれなんでホテルにいるんだ俺って思ったんですけど、しかも隣に誰だよこいつ知らねえっていう女がなんか寝てるよって思ったんですけど、でもすぐ思いだしたんですけど、あ、きのうの夜そういえば、そうだここ渋谷のラブホだ思いだした、ってすぐ思いだしたんですけど、」

 まず「ミノベって男の話」が「ミノベくんって人の話」に変更されているところから、リクリエイテッド版がより中性的な口調を志向していることが読み取れる。しかし、より本質的な変更は、語尾の繰り返しかただ。リクリエーション/リクリエイテッド版では、次のように語尾のバリエーションが「ですけど」で統一され、初演に比べて語りがフラットになっている。

初演版
「話なんですけど」「とか思って」「とか思って」「すぐ思いだしたんだけど」「ってすぐ思い出してきたんですね」

リクリエイテッド版
「話なんですけど」「って思ったんですけど」「って思ったんですけど」「すぐ思いだしたんですけど」「ってすぐ思いだしたんですけど」。

 初演では、男性の語りが、元話者の内言、元話者の語り、そして現話者の語りの間を揺れ動くような奇妙な感覚に陥れられたのだが、リクリエーション・リクリエイテッド版では、ミノベくんの内言と語り手の声とは容易に区別できる形式になっている。その代わりに、「ですけど」という繰り返しによって、いま話しているのが元語り手でなく現語り手であることがより強調される口調になっている。

『三月の5日間』リクリエーション(KAAT神奈川芸術劇場)

 板橋優里は、この冒頭の語りを、しばらくフラットに語りながら、ところどころで一人称に乗せてやや声を高めながら語っていく。こういうところもちょっと思いがけない。これは二場に登場する石倉来輝もそうで、彼は、朝倉千恵子演じるミッフィーちゃんと張り合うほどに挙動不審な男性を演じ、米川幸リオンが距離をとった語りをしているのと対照的に、二場に思いがけないテンションをもたらしていた。板橋、石倉、朝倉による、語りの中に自分の憑依できる一人称を見出してそこに情動をぐっと込めていく語りは、この劇の前半に意外な抑揚をもたらしていた。それは、もしかしたら、2003年に対する2017年の生理的違和感が発露されたものだったのかもしれない。この脚本に書かれた言い回し、わかりやすいところでは「まったりタイム」のようなことば遣いや今は見られない風物、そしてそこここに曖昧に漂っている2003年的な口調は、2017年の二十代にとってあちこちで違和を感じさせるものだろう。彼らがときに見せる一人称的な身振りは、そうした違和に対する反作用にも見えた。

近接話法はいかに演じられたか

『三月の5日間』リクリエーション(KAAT神奈川芸術劇場)
『三月の5日間』リクリエーション(KAAT神奈川芸術劇場)

 『三月の5日間』の魅力は、元話者と現話者の境を危うくする近接話法にあると見るわたしにとって、今回のリクリエーション/リクリエイテッド版でぐっときたのは、四場以降の語りだった。渡邊まな実が腕と体をたわませながら語りの主体を入れ替えていく不思議な動きと声の組み合わせは、再演には見られなかったものだ。また、中間アヤカが体をまさぐるようにする不穏な動きは、『部屋を流れる時間の旅』以降の幽霊的存在を感じさせるものだった。わたしがとりわけどうかしてると思ったのは、渋谷采郁の語りで、彼女は少し甘く粘るような声で、男性も女性も軽々と踏み越えて、元語り手でも現語り手でもない口調は、まるでギアチェンジなしに風景を巧みに縫っていく柔らかいマシンのようで、独自のドライブ感を感じた。

 人物配置にも新しいところがあった。特に七場では、二組のカップルが舞台に登場したのだが、緊張をもたらすであろうこの場面で、わたしはなぜか若い演じ手たちの間に流れる親密さを感じて、なんだか共同生活の一端を見ているような気になった。こういう愛敬は、初演にはないものだった。

 そして十場。ユッキーが道玄坂に戻って思いがけないものを目撃するところを、男性ではなく女性が語ったのは、このリクリエイテッド版の大きな変更だったと言えるだろう。渡邊まな実がユッキーの体験を一人称的に語ることによって、わたしはこの場面で起こった生理的な反応の生々しさを、初めて感じることができた。

 リクリエーション版では、登場人物が中央でモノローグを言う場面でとくに声の力が増しているように感じられたが、それは舞台に設えられた幾何学模様のせいもあるだろう。中央に線を集中させるその配置によって、中央に立つ俳優の存在は視覚的にも高められていた。そういえば、中間アヤカだったか、七場かそれ以降で、この模様を戯れに持ち上げるしぐさをしているのがおもしろかった。観客はそのしぐさによって、この模様が床にはりついたものではなく、取り外し可能な人工物であることに気づかされ、ふと自分たちがその簡単なしかけによって錯覚を起こさせられていることを意識させられたのである。

***

 帰りに白水社から出ている脚本集『三月の5日間 [リクリエイテッド版]』を買い求めて、文字化された台本を見てみたが、冒頭のみならず、全編に改訂が為されていることに改めて驚かされた。オリジナル版では「男優1」「女優1」という風に全体を通して番号が記されていたのが、リクリエイテッド版では、役名が「1A」「2B」のように場面ごとに記号化されている。これは、何人で演じるか、場面ごとにどの役を誰に配するかが演出家に委ねられていることを意味している。これから先、この台本をもとにいくつもの異なる『三月の5日間』が現れるのを、わたしたちは目撃することになるだろう。

  • 細馬宏通

    1960年兵庫県生まれ。京都大学大学院理学研究科博士課程修了(動物学)。現在、滋賀県立大学人間文化学部教授。日常会話における身体動作の研究を行うかたわら、日常会話、伝統芸能の伝承場面、介護場面などで、人と人とが空間や時間をどうとらえ、どのように相互に思考するかを、発語とジェスチャーの微細な構造を拾い上げることで探っている。漫才、じゃんけん、カードゲーム、ページめくり、演劇の稽古、井戸端会議など、扱う場面は近年ますます多様になっている。著書に『介護するからだ』(医学書院)、『うたのしくみ』(ぴあ)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くか』(新潮選書)、『絵はがきの時代』『浅草十二階』(ともに青土社)などがある。

関連記事

関連作品