人はいかに幽霊になるのか『部屋に流れる時間の旅』のこと(2)

「わたしたち」→「みんな」→「わたしたちみんな」

 帆香は、しばしば問いの形で一樹に語りかける。しかし、その問いは一樹に開かれているわけではない。なぜなら問いを立てる前に、帆香はまず揺るぎのない自分の心情を述べてしまうからだ。最後に付け足されるように発せられる一樹への問いに対して、わたしたちはとりあえず肯定か否定で答えることはできるけれど、実際にはどちらの選択肢をとろうとほとんど意味をなさない。たとえば冒頭の帆香の台詞をもう一度見てみよう。

帆香:とてもしあわせ。しあわせな気持ちが、褪せていかないし、減ることもない。ずっと続いてる。わたしたちのなかで。そう思わない?

 「そう思わない?」という問いに対して許されている答えは「そう思う」か「思わない」でしかない。仮に「思わない」と答えたとしても、帆香がすでに「とてもしあわせ」であることは揺るがないし、帆香がその「しあわせ」を「わたしたちのなか」に見出していることも揺るがない。帆香の問いは、一樹に対して開かれているというよりは、帆香の考えの確かさを確認するためのものであり、彼女の確かさは、一樹の答え方によって変わるものではない。そのことは、帆香の問いに対して一樹が問い返した次の場合を見れば、明かだ。

帆香:すごくくだらないことで喧嘩したの。どんなことでしたか、おぼえてないの?
一樹:そんな、喧嘩なんてしたっけ?
帆香:おぼえてないの? すごくくだらないことで言い合いしたの。ほんとにおぼえてないの?

 このように、帆香に問い返すことは、一樹の記憶のあやふやさを示すことになり、一樹の疑問や反論を無力化していく。帆香は問うが、その問いは、一樹の記憶をますます帆香のことばによって隙間なく埋めていく。

 帆香は、「喧嘩をした」といった、外から見て記述可能なできごとの記憶だけでなく、本来見ることのできない一樹の考えや感情まで記述していく。たとえば劇の後半で、地震の前後で二人の「気持ち」が変わってしまったことを、帆香は次のように語る。

帆香:地震が起こって、最初、怖さと、悲しい気持ちと、不安と、あと、どうしていいのかわからない気持ちとで、みんな、かき混ぜられたでしょ。
 でも、そのあとで、明るい気持ちが来たの。今まで感じたことがないくらい、明るい気持ちが来たでしょ? わたしたちに。
 ねえ、それもおぼえてるでしょ?

 帆香は自分の考えのみならず一樹の考えまでを「今まで感じたことがないくらい、明るい気持ちが来たでしょ? わたしたちに。」と語ってしまう。そのあと例によって「おぼえてるでしょ?」という問いを置く。こうなるともはや、一樹が過去に行ったことのみならず、考えたこと、感じたこともすべて、帆香によって逃れられない形で決められてしまう。

 そして、油断ならないのは、このような語りの中にさりげなく「みんな」が差し挟まれていることだ。「みんな、かき混ぜられたでしょ」。帆香は一樹に「わたしたち」と語りかけながら、その一連のことばのなかに「みんな」を接続し、観る側までも取り込んでいく。劇の後半には、それは「わたしたちみんな」ということばになって、観る側の感情までもが、帆香と一樹の会話の中に、いつのまにか包含されている。

帆香:ねえ、こうやって生まれ変わるより前のわたしたちって、思い返すとなんてつまらなかったんだろうって思わない? わたしたちみんな、自分のことしか考えてなかった。他人のこと考える余裕なんてないって思ってたでしょ?(下線筆者)

答えの出ている問いが生み出す不穏さ

 帆香の考えには、不自然なほど影がない。地震のあとに自分がたどりついた境地に、まるで疑いをもっていない。それまで声をかけもしなかった近所の人々に明るく声をかけ、それが一点の曇りもなく機能していくことに喜びを感じている。しかし、そのことがかえって、彼女の言動を不穏なものにしている。影がないことは、ある意味で幽霊であることの証左である。

 帆香のことばは、一樹の応答を得ることなく、次第に不穏な考えへと移ってゆく。地震のあとに見かけたという税務署の建物の前の国旗について語るにいたって、「わたしたち」は、彼女の語りが明らかに行きすぎていること、もはやそれは「わたしたち」という代名詞のもとでは語り得ない考えであることに気づく。

帆香:旗をたてるポールが立ってて、そのポールに国旗がかかってたのを見たの。あなたは気に留めてなかったかもしれないけど、どう? おぼえてる? これはあなたに話してなかったと思う、わたしはとてもおぼえてるの、それを。その国旗がそのとき、今までと全然違って見えてわたし、はっ、てしたから。
 すごく驚いたの、だってそれまでその旗がそんなふうに見えたことなかったから。そんなふうにいいものに。押しつけてくるような印象しかそれまで持ったことなかったのに、そのときは、そんなふうに思うなんて自分でもほんとうに不思議だったけど、わたしたちがこうやって新しく生まれ変わったことの、そして生まれ変わったわたしたちでこれから世の中が変わっていくことの、その旗がきっと象徴になっていくってことが、想像できたの。

 しかし、帆香は周到にも、このエピソードを、「あなたは気に留めてなかったかもしれないけど」と、まるで一樹の(そして観る者の)意識の外にあるできごととして語る。「どう? おぼえてる?」という問いの答えは、もう出ているのである。一樹は、そしてわたしたち観る者はおぼえていない。けれど帆香は「とてもおぼえてる」。帆香のこのことばがもたらす異様な居心地の悪さは、単に「国旗という象徴」という全体主義的なイメージに帆香がたやすくつかまってしまっているからではない。帆香は一樹の、そして観る者の記憶の中に、意識から逃れるようなくらがりを見出し、そのくらがりに記憶の国旗を立て、照らし出す。この、記憶の虚を突くような手続きが、観ているわたしたちみんなを居心地悪くさせるのだ。

 わたしたちは帆香という幽霊を観ている。幽霊を観ることで、わたしたちの記憶のくらがりにわたしたちの知らなかったことを観出しつつある。では、ありさと一樹の場合はどうだろうか。(続く)

  • 細馬宏通

    1960年兵庫県生まれ。京都大学大学院理学研究科博士課程修了(動物学)。現在、滋賀県立大学人間文化学部教授。日常会話における身体動作の研究を行うかたわら、日常会話、伝統芸能の伝承場面、介護場面などで、人と人とが空間や時間をどうとらえ、どのように相互に思考するかを、発語とジェスチャーの微細な構造を拾い上げることで探っている。漫才、じゃんけん、カードゲーム、ページめくり、演劇の稽古、井戸端会議など、扱う場面は近年ますます多様になっている。著書に『介護するからだ』(医学書院)、『うたのしくみ』(ぴあ)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くか』(新潮選書)、『絵はがきの時代』『浅草十二階』(ともに青土社)などがある。

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