コメント

  • 内野儀(演劇批評)

    わたしの個人的チェルフィッチュは2004年2月に始まった。『三月の5日間』をスフィアメックスで見て、直後に、「図書新聞」に劇評を書いた。〈衝撃〉を受けたという紋切り型ではなく、不可思議な強い〈情動〉に襲われたのだった。それからずっと、その〈情動〉を言語化しようと思って、進化/深化しつづける岡田利規について、なんだかんだと書き続けてきた。だが、なんか、はずれてしまう、のだ。それが演劇というものだ、とか言われたくない。幸いなことに、『三月の5日間』がリクリエーションされる。あの〈情動〉が今どういうことになって立ち現れてくるのか、こわごわと、どきどきと、その時を、手ぐすね引いて、わたしは待っている。

  • 木村絵理子(キュレーター)

    あの頃よりも戦争が身近になってしまった私たちにとって、「三月の5日間」に流れていただらしない幸福ともいうべき時間は、取り戻せない過去のように心の大事な場所に収まってしまった。
    あれから私の周囲では、言葉との整合性のない身体の動きに対して「チェルフィッチュのような~」という形容まで生まれたような記念碑的な作品が、今回のリクリエイションによってどのように2017年のアクチュアリティを更新するのか、必ず見届けなければならない。

  • 又吉直樹(芸人、作家)

    二十歳くらいの僕と会話ができるなら、「チェルフィッチュ絶対観といてな」と言いたい。
    岡田利規さんの作品は言葉を介しているのに、言葉で掴むことが難しい。だから自分で体感するべきだ。人が揺らぐことも、変化することも最初から知っていたはずの自分が、人がそうなる瞬間を初めて観ているような感覚になる。
    定点のカメラで植物を長期間撮影し、それを早送りすると植物が少しずつ変化する様子が見える。知っていたはずなのに知らなかった変化。それに似ているか、違うか。掴めない。観て。

  • 尾崎世界観(クリープハイプ )

    普段、作品に触れる時は、自分の中にある空白を埋めようとしている。でも、チェルフィッチュの作品は自分の中の空白を増やしてくれる。そして観終わった後、真っ白な紙に何か書きたくなる。無性に。

  • 豊崎由美(書評家)

    新しい人として現れた岡田利規は20年かけて深い人になっていった。
    20代の役者で再演される『三月の5日間』で、新しい人だった岡田と深い人である岡田が現在進行形の時間の中に重なり合う。
    その瞬間を目撃できる幸福を、思う。

  • 福永信(小説家)

    記念すべきチェルフィッチュ13周年を飾る『私たちは無傷な別人である』は、我が生涯最高の観劇体験のベスト2だが、ではベスト1は何かと言うとこれまた同じ年の『私たちは無傷な別人であるのか?』である。「内容」はほとんど同じ作品であるが、岡田は私に「密度」が違うと言った。だから違う作品である、と言ったのである。私は「大した男だ!」と、岡田のことをそれまでは普通に才能あるなくらいだったが、その瞬間から大尊敬して今に至る。そんな岡田が、初期の話題作を「リクリエーション」するという。岡田が2度、「ほとんど同じ作品」を作る時、何かが起こるに違いないのである。そして私のベスト1が更新する。のか?

  • 橋本裕介(KYOTO EXPERIMENT、ロームシアター京都 プログラムディレクター)

    チェルフィッチュ「三月の5日間」が日本の舞台芸術に果たした役割は、強調しすぎてもしすぎることは無い。
    私の立場から言えるのは、彼らの国際的な活躍は、日本における国際プラットフォームの必要性を高め、そのニーズを満たす上でも、Kyoto Experimentのような国際舞台芸術祭が機能したことである。
    リクリエーションにあたり、共同製作パートナーとして名を連ねることができるのを誇りに思います。

  • 安藤礼二(文芸評論家)

    岡田利規は、言葉と身体と舞台の不協和の協和を探究し続けている。言葉と身体と舞台は、互いに対立し合うとともに、そのことによって、まさに互いに響き合う。それこそ、世界そのものが明らかにしてくれる真実ではないのか。「三月の5日間」は、剥き出しの暴力が吹き荒れる現実世界に対して、演劇的な想像力を極限まで駆使して構築されたもう一つの世界、「愛」の新世界を対峙させる。対立を協働に、暴力を愛へ。そこにこそ、表現の可能性が秘められているはずだ。

  • 遠山正道(㈱スマイルズ代表取締役社長)

    三月の5日間を演じた人も評価した人も賞を与えた人も、
    勇気があってステキ。
    これからのそれも、それがどうなっていくのか、
    その行為自身がすでにステキ。
    また勇気を浴びにいく。

  • 青柳いづみ(女優)

    劇場が渋谷の街になったりひとりきりの部屋になったり宇宙になったりすること。
    ひとりの人間が男になったり女になったり大勢になったりものになったりもできること。
    想像することで世界が変わること。
    わたしは三月の5日間から演劇を教わった。
    「モクモクモク~」というせりふが言えなくて、何日もモクモクモクモク言わされ続けた、大昔にわたしも演じたミッフィーちゃん(わたしの青春)は、2017年のミッフィーちゃんは、今度はどんな世界へゆく ?