コメント

  • 森山未來(俳優、ダンサー)

    白紙も模様のうちなれば、こころにてふさぐべし
    そんな言葉が最近の岡田さんの描く世界には、より顕著に感じられるように思う。
    どうしてチェルフィッチュもしくは岡田利規はこんなにも世界中を飛び回り、(僕が不勉強なだけなんだと思いますがここは強弁に)数多ある日本の小劇場あるいは商業演劇がいまだ日本の枠から抜け出せないのか。
    そのために犠牲にしたものもあるだろうが、そこを通過したことによってさらに豊かな、抜けのある世界観が広がっている。
    このことを日本人である僕らがどう感じるのか。
    日本は岡田利規を持て余している。
    グローバルなんて陳腐な言葉を使わずに(使っちゃった)、僕らはこの意味を真摯に想うべきだ。

  • 前野健太(シンガーソングライター)

    岡田利規にふれると、ざわつく

  • 川村麻純(写真家)

    岡田さんの関心は歴史と幽霊にむかっている。いまの日本を作品化するためにそれは当然かもしれない。
    作中で役者たちが語る台詞、作品の題材、構造にそれは現われる。
    2000年代初頭の雰囲気が作品の中に結晶化された『三月の5日間』を岡田さん自身がリクリエイションすると聞いたとき、岡田さんの考える「リ」とは、一筋縄ではいかないと思った。
    キャストは男性5名から女性5名へ、女性2名は男性2名へ。この変化だけでも期待は高まる。
    いずれこの作品は古典として継承されていくだろう。

  • 長坂常(スキーマ建築計画代表、建築家)

    会場からラフなかっこをした観客のような役者がふらり現れ、真ん中に立ち、「それではAさんの話をしまーす。」と解説なのか演技なのかわからない感じのままおもむろに舞台は始まり、 「 」をつけて説明されている他者であるAさんがそのうち「 」がとれ当事者のAさんになる。その時、僕たち客は僕たちがいるこの場所から一気にその想像の場所に連れて来られる。しばらくその中にいたら、その想像の世界のライブハウスがこの我々がいる場であることをつげられ、一瞬想像の世界から再び会場に連れ戻され、またAさんは「 」に閉じ込められる。そのうち、休憩時間と言われ、それが台詞なのかアナウンスなのかわからない間に役者と客が入り混じり、その光景をみて休憩と理解し、僕はその中をすり抜け、地上に上がり六本木通り沿いを歩いてサンクスに。中に入ると店員がコインの束を繰り返しカウンターの角にぶつけながら崩す様を見て、さっきの演技とラップし、また会場に連れ戻される。そんな不思議な越境する体験が生身と肉声のみ、全くセットに頼らない中で作られ、学生の頃から漠然と疑問に思っていた舞台への疑いが全て晴れたそんな三月の5日間の話でした。

  • 大谷能生(音楽、批評)

    2006年制作の『体と関係のない時間』で音楽を作らせてもらったのがぼくの舞台音楽作品のはじまりなので(滞在制作もはじめてでした)、チェルフィッチュには本当に感謝してます。リハ中に、どんどん身体だけで時間を作る場面が増えてゆき、音のきっかけも毎日変って、演出という作業がコレかー、とそのとき目を開かされました。京都だけでやった作品ですが、いまだに覚えてるんで10年越しでまた出来たらいいなあ、とか。次の10年もよろしくお願いいたします。

  • 古川日出男(小説家)

    一. 「劇は、見られているものだ」と岡田さんは宣言しました。
    二. 「これから開幕するし(幕がなくても)、だから、そのうち閉幕します」と。
    三. チェルフィッチュとは、「見られているものしか呈示しない」集団です。
    四. しかし、見えないものを届けているのです。

  • 濱口竜介(映画監督)

    2006年、六本木スーパーデラックスに『三月の5日間』を見に行った時の興奮は今も鮮やかに思い出せます。当時のルームメイトと観劇帰りの夜道や電車で、何度も「すげー面白かったな」を繰り返した記憶があります。言葉や動きや発声が自分たちの生活そのものでありつつ、キュビズムみたいに各要素が現実とはまったく違う形で再構成されていて、初めて「今の自分たちがそこにいる演劇」を見たという実感を持ちました。実のところ、生涯ナンバー1の演劇体験だったりします。それから10年以上経った今、岡田さん自身によるリクリエーションがどのようなものになるのか。90%の期待と、9%の不安と、1%の心配とともに、待っています。

  • 矢野優(文芸誌「新潮」編集長)

    「三月の5日間」は決定的な作品だ。思い出すだけで、その革新的な創造性に胸が震える。今回のリクリエーション版、戯曲版そして小説版――この3つが与えてくれる知的で野蛮な3コードを新たに聴けることを同時代人として幸福に思う。

  • 金氏徹平(彫刻家)

    三月の5日間は何度もやってくる。
    常に新たな視点や姿勢や価値を求め続ける岡田利規が自らの過去に目を向ける時、そこに新たな視点や姿勢が含まれているからであるはずだ。三月の5日間に新たに取り組むこと自体が、まだ見ぬ何かであるのであろう。過去とか現在とか未来とか、近いとか遠いとか、瞬間とか永遠とか、嘘とか本当とか、そういうこととはまた違った何か。
    ミッフィーちゃんがどんな感じかが一番気になります。

  • 林央子(編集、執筆)

    「三月の5日間」が初めて観たチェルフィッチュの演劇だった。衝撃のなか、本を買った。『わたしたちに許された特別な時間の終わり』。舞台の俳優たちのたたみかけるような語り口調が、活字になって紙の上に現れている。言葉の渦に飲み込まれるように文字をおっていく。文学と演劇が融け合った文劇とでも言うべき新ジャンルをチェルフィッチュは拓いてきたのではないだろうか。一見地味、だけどその実何を考えているかわからないというような、いわゆる、日本人らしい拓き方で。チェルフィッチュを観たあとは、日常への意識がちょっと拡張されて、どんなディテールも見逃さないぞという責めの気持になっていることが多い。その余韻に浸る時間も結構、楽しい。