第62回岸田賞の選考とかの日々
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朝、新幹線で名古屋に。愛知県芸術劇場小ホールロビーで、「第62回岸田賞の選考とかの日々を経て」という、この劇場が主催するAFF戯曲賞をプロデュースする山本麦子さんとのトークイベント。
イベント開始前、山本さんと控室で〈戯曲〉と〈上演台本〉の違いとは? ということを話していた。AFF戯曲賞でもよくのぼる話題だとのこと。僕自身は、ある特定の作品(たとえば「ブルーシート」)が戯曲か否か、というのは考えたことがあるものの〈戯曲〉と〈上演台本〉の違いは? ということを考えたことはあまりない。
でもそのとき控室でふと思いついたのは、〈上演台本〉は時が経つことで〈戯曲〉になるのかもしれない、ということだった。
それでいえば、「ブルーシート」はもう戯曲かもしれない。
「三月の5日間」名古屋公演2ステージめ。初演から39ステージめ。フィードバック。僕はこの先の長野公演と山口公演にはいられない。役者のみんなと次に会うのは五月のヨーロッパツアー前の稽古のときになる。新幹線で新横浜。そこから横浜。STスポットでQ「妖精の問題」観劇。アフタートーク。
翌日はミュンヘンに移動。二ヶ月弱滞在します。
この日記はこれで終わりです。 -
熊本から飛行機で東京に。機内で西尾佳織氏「ヨブ呼んでるよ」。再々読。バツにすることに決める。金田が希帆に説教するところや、美和子が希帆に説教するところ、そして希帆がそれぞれに対して何も返さないところは、おもしろい。こういうものを書きたいんだというエネルギーがこもっているのを感じるし読んでいてそれにのれた。そしてその希帆がバートルビー的であるというのは、わかる。けれども、だからといってバートルビーのあのせりふを引用することに対する、腑に落ちるなにかを見つけることができたわけではなかった。書かれるべきことが書かれていない、という印象を再々読でもなお払拭できなかった。何が書かれていないかを問題とするために書かれているべきことが書かれていない、ということかもしれないけれども。
神保町のホテルにチェックイン。小一時間いる。選考会場の学士会館へ。選考会。僕は最初の投票で神里氏・松村氏・山本氏をマルに、福原氏をサンカクに、糸井氏・サリngROCK氏・西尾氏・山田氏をバツにする。選考の結果、神里雄大氏「バルパライソの長い坂をくだる話」と福原充則氏「あたらしいエクスプロージョン」を授賞作とした。神里氏の作品への、父島のくだりは短すぎて物足りない、という僕のコメントに対して、行き帰りの船の中の時間を含めればそんなことはないのでは、という指摘が他の選考委員からあり、確かにそうかも、と思った。福原氏の作品への、観客との予定調和が前提になっているのが気になる、という僕の見解に対して、でもそれは他の候補作たとえば山本氏の作品だって、福原氏のとは違う種類のそういうものが前提になっているのでは、という指摘があり、そ、そうかな(でも、そ、そうかも)と思った。打ち上げ。 -
福原充則氏「あたらしいエクスプロージョン」。再読。初読のときよりも、いいところがたくさんあることに気が付くことができた。決めにいっている決めぜりふがちゃんと決まっているな、と感じる。
けれども、技術とかセンスといったこと以前に、そもそも僕にはこの戯曲が、観客との予定調和が想定されたうえで書かれているもの、というふうにしか思えず、そして、そうしたものに対して自分が良いだの良くないだのと言うことに、意義や価値を見いだせない。。。サンカクを「わからない」ということの表現であると今回は定義し、「あたらしいエクスプロージョン」だけサンカクにするかもしれない。この候補作が今回、僕にとっていちばん、むずかしい。。。
熊本市現代美術館で打ち合わせの続き。決めるべきことすべて決まる。テレビ局の取材。 -
糸井幸之介氏「瞬間光年」。再読。これの上演を見て面白いと思うことはできるかもしれないという想像が再読の今回ではできた。しかし今回も、おもしろいことがここに書かれている、と思うことはできなかった。テキストの密度が濃くないと思う。え、そこ止まり? という感じがする。もっとその奥までいってほしい。
台本執筆。denkikan(熊本市内の映画館です)でアキ・カウリスマキ『希望のかなた』。脚本うまいなー。熊本市現代美術館へ。映像演劇の打ち合わせ。長丁場。 -
朝豊橋を発つ。新大阪まではこだま、そこからはさくら。車中で台本執筆。昼過ぎに熊本に。自宅で確定申告作業。
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山本卓卓氏『その夜と友達』。再読。マル。演劇という道具を自分にとってしっくりくる仕方で用いる、自分の語りたいことを語りたいように語る、ということが演劇を通してできている、と思う。そしてそうして語られているストーリーに、僕はのることができた。この話・このスタイルに付き合っていきたいと、最後まで思えた。一番最後のシーンの会話の書き方はヌルいなと、ちょっとだけだが思った。
映像演劇作品のことでちょっと大きな懸案が生じたので急遽、今いっしょに映像演劇をつくっている舞台映像デザイナーの山田晋平氏が先生をしている愛知大学まで行く。善通寺を発ち岡山へ。そこから新幹線で豊橋へ。大学の中のスタジオでいろいろと検討。アイデアの変更について話し合い。この日のうちに熊本に帰る予定だったけれど、終わったときそれは不可能な時間になっていたので豊橋に宿泊。
今のところの考え。神里氏・松村氏・山本氏の三氏がマル。あとの五氏はバツ。でも、三氏同時授賞はよくないと思う。多すぎる。二人までにするべきと思う。ところが、三氏の中での順位は僕にはない。仮に選考会がこの三氏を二氏にしぼるという展開になったら、そこについて自分は強い意向を持てない。そうなったときは、他の選考委員たちの見解の趨勢に任せてしまいたい。。 -
松村翔子氏『こしらえる』。再読。マル。ひとつの場にいる多数の人物にしゃべらせてそれをおもしろいシーンに仕立てていく力量には疑う余地がない。たとえば三場や十二場。そして状況を展開させていく手続きが丁寧で、同時にいい意味の強引さもある。どしどし展開していくために必要な強引さ。その強引さに僕はのることができた。
作品に備わる腕っ節、という観点からだとこの作品が一番だ。
初読のときは、Nは不必要ではないかと思った。その疑問が完全に晴れたわけではない。けれども再読してかなり薄らいだ。しかし未だに疑問なのは、Nの役どころにとって役名が「N」であるということが肝要であるはずだけれど、戯曲を読むわけではなくて上演を見るだけである観客には、それはわからないのではないか、ということだ。
この戯曲で描かれていることは、絶望とも希望ともとれる。人間が人間社会の外にいくためには人間でなくなるしかないのだ、ととることもできるし、人間であることをやめさえすればそれだけで人間社会の外に出ていくことはできるんだ、ととることもできる。要は読み手・観客に委ねられている。読み手・観客は問われているのだ。
うどん食べる。楽屋で執筆。お昼過ぎからお話し会。照明の確認。ゲネプロ。楽屋で執筆。「三月の5日間」香川公演1ステージめ。初演から36ステージめ。 -
神里雄大氏「バルパライソの長い坂をくだる話」。再読。マル。二度目なので、語られるエピソードそれ自体だけでなく、それが語られる場である舞台のセッティングのことも把握しながら読むことができた。エピソードたちは、男1の母親である女が中に引き籠もっている車を中心とした場で語られる。女の夫、つまり男1の父親、の灰を海に撒きに行こうという息子による母への誘いかけを基調としながら、さまざまなエピソードが語られる。どのエピソードも、一世代に収まらない長い時間のスケールを持つ歴史の話である。そのような話がこのような状況設定のなかで語られることに得心がいったというのが、再読で新たに得た大きな感想。身近な人の死に心が囚われている時期にはかえって人類という単位だったり悠久の時間のスケールだったりで物事を考えたりするようになる、というのは僕にもおぼえのある経験だ。それは人なんて今このときだってどこかで死んでいるのだ、という事実と、それでも身近な人の死はやっぱり重大なことだという主観の心情とのギャップに対しておこなわれる、人間の心の反応なんだろうな。
「バルパライソの長い坂をくだる話」がとっている、リアリズム的な会話劇とは違うしかたの、登場人物どうしの辛うじてやりとりする体。ひとつのせりふごとに登場人物が長々と話すという、このスタイルによって可能になる詩情があり、それは活かされている。
父島のエピソードの中のランスという人物についてはもっと書き込んで欲しかった。父島のくだり自体にもう少しずっしりしたボリュームがあったほうがいいと思った。
長野を発ち名古屋・岡山を経由して香川。善光寺から善通寺への長旅。四国学院大学内の宿泊施設にチェックイン。
以前僕は、そのときの授賞作だった飴屋法水さんの『ブルーシート』を、戯曲とは上演のための条件となるべきもので、これはそうではなくて行われた上演のドキュメントにすぎないのではないか、という理由で推さない、ということをした。要は『ブルーシート』を〈戯曲〉とみなさなかったのだ。その見解が正しかったのかどうかはわからない。その後飴屋さん自身の演出で再演された『ブルーシート』は見たけれど、そしてその際のテキストは授賞時のテキストそのままではなく、変更が施されていたけれど、それによって上記の僕の考えが確かなものになりはしなかったし、反対に改まるということもなかった。だからあれはまだ僕の中で保留のままである。
そうした疑問を抱かせるような作品が、今回の8つの候補作の中にはない。どれも〈戯曲〉だと思う。 -
西尾佳織氏「ヨブ呼んでるよ」。再読。バツかサンカクか。ひとつひとつのシーンに、展開を次へと促すだけの密度が備わっているように感じられなくて、おそらくそのせいで、いまいち乗れない。けれども西尾氏が何を書きたいのか何をリアライズしたいのか、なにを抉り出したいのか、ということはわかってきたような気がする。まだそれをクリアーに言葉にすることができないのだけれど。そして、それが作品のなかでじゅうぶんにリアライズされてはいない、抉り出せてはいないと思うのだけれども。もう一度読もうと思う。台本執筆。インタビューを受ける。その後善光寺へ。真っ暗闇の中を歩く戒壇巡りをひとりエンジョイ。戻ってまた台本執筆。宿の目の前に「アルプス温泉」という看板があり惹かれて入ったけれど温泉じゃなかった、普通の銭湯だった。
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長野へ。夕方、ネオンホールでトークイベントに出演。チェルフィッチュは今度初めて長野で公演するので、自己紹介的イベント。終わったあと居酒屋。野沢菜漬の天ぷらが、記憶に刻まれるおいしさだった。あと蕎麦も。長野は寒い。