ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 × チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーションレビュー

チェルフィッチュのヴァーチャル・ノイズ/スクランブル交差点に転がる死体の幻視について

Ⅰ. 東京空爆後の渋谷のように

この目で見た、あるいはすっかりそう思いこんだ粉々になって地に倒れ伏したあの町、強力な死の臭気が走り抜け、持ち上げ、運んでいたあの町、あれは皆現実の出来事だったのだろうか。
ジャン・ジュネ『シャティーラの四時間』(鵜飼哲・梅木達郎訳,2010,厚徳社)

 1982年、ジャン・ジュネは、西ベイルートの難民キャンプで起きたパレスチナ人虐殺のルポルタージュを書いた。それが『シャティーラの四時間』である。ジュネは馬跳びするように飛び越えなければ歩くことができないほど、そこら中で黒くふくれた死体たちを鮮明に記録する。記録というのは正しくないかもしれない。「雲のように群がる蝿の猛攻を受けている死者たち」にまなざしを向けながら、しかし目の前にいるはずの見えない彼ーすなわち彼らを無残に拷問し廃棄した彼ーの記憶を問うのである。
 私が見た「三月の5日間」とは、このようなものだった。渋谷のスクランブル交差点に横たわる夥しい数の死体、群がるハエをかき分けながら歩く人、崩れ去るビルがいままさに頭上へと落下してくる瞬間の身震い、気づけば見知らぬ「もの」として隣で寝ている「女」、それをちゃんと「人」として認識することに自らの人間性を確認する男、東京空爆が現実のものとなったかのごとく幻視され偏在する5日間の記憶。だから、本作は『三月の5日間』の改作ではなく、2004年に実現はしなかったがあり得たかもしれない現実、いわばSF的想像力に支えられた潜在するパラレルワールドを描いた作品である。
 しかし、これはあまりにも主観的な体験であり、まるで説得力を持たないかもしれない。それどころか、『三月の5日間』リクリエーションは、戯曲の文体やト書きの指定に変更があったとしてもストーリーラインに一切変更がなく、だとするならばそれはイラク戦争を遠景にライブハウスで知り合った男女がラブホテルで4泊5日、ひたすらセックスをして名前も聞かずに別れるという物語が観客の劇体験になることは自明の理であり、なおかつ異国を訪れたかのようにリリカルな陶酔感でもって経験される裸形の〈日常〉、それと表裏一体の人間が人間に見えなくなる不安のうちにイラク爆撃が「若者」に書き込んだ〈外部〉のエコーを聴き取るといった読解が最もオーソドックスな解釈になるだろう。
 これは、オリジナル版からリクリエイテッド版のテクストに引き継がれた解釈の地平である。それではなぜ私は「すごく私的には特別な渋谷」(『リクリエイテッド版』56p)に、裸形の〈日常〉ではなく、東京空爆後に「死の街」へと反転した陰惨な〈現実〉を感知したのだろうか?
 テクストと身体が上演の時間を二重化していたから、というのがその答えになる。

Ⅱ. 「っていう」の削除は何を意味するか

 まずは戯曲の文体に着目してみよう。
 オリジナル版のテクストは、人づてに聞いたことを語り直す伝聞形式を基本としている。しかしそれは人から聞いた話を能動的に「思い出して語る」というよりは、人から聞いた話のなかで「思い出されてきたことを喋る」といったものだった。一例をあげよう。

朝起きたら、なんか、ミノベって男の話なんですけど、ホテルだったんですよ朝起きたら、なんでホテルにいるんだ俺とか思って、しかも隣りにいる女が誰だよこいつ知らねえっていうのがいて、なんか寝てるよとか思って、っていう、でもすぐ思い出したんだけど……
『オリジナル版』27p

 台詞は「わたしは〜と思う」といった志向的まとまりを持つ統合された意識の流れとしてではなく、「思ったのは〜これ・それ・あれ」のようにバラバラに裁断された複数の意識の集積として書かれている。主体は単焦点的にコミュニケーションの起点となり「思ったこと」を伝達する身体=「人格」としては想定されず、多焦点的に発話するたび匿名的な記憶=ノイズが書き込まれていく宙吊りにされた身体=「器」としてイメージされている。
 例えば、それはTwitterのアイコン(≒アバター)に似ているかもしれない。そこで主体はコミュニケーションで意思疎通を図る対面的な「人格」ではない。タイムラインに並ぶ無数のコミュニケーションの痕跡たるツイート―「いいね」やRTを含む―が、ダラダラと終わりなく連鎖的に接続されていき(「〜なんですけど」で連鎖していく文体のように!)、アイコンを「器」にすることで、それらのログ=記憶の集積がおぼろげに「主体」の像を結ぶ。
 このように宙吊りされた身体=器のレベルでは、台詞だけでなく身振りも等価にジャンクな現象になる。オリジナル版に顕著だが、台詞と身振りが同期せずに(身体が発話を補足する注釈にならずに)齟齬をきたしズレていく運動が生起する理由はそれで、言葉も身振りも身体に書き込まれる「記憶痕跡」の断片という意味でフラットであり、相互に独立してバラバラなリズムを奏でていく。つまり、チェルフィッチュ的主体とは、コミュニカティブな関係性から無数の匿名的な〈記憶〉をそのつどごとに生成していくジャンクな集積身体であり、それこそオリジナル版が惹起した―日常に隠された―日常的身体の不気味な位相なのである(山縣太一/オフィスマウンテンはこの方法をラディカルに展開した結果、驚くべき〈劇〉のありかを示しているが、その詳細はまた別の機会に)。
 ところが、リクリエイテッド版を見ると、かなりリニアな意識=コミュニケーションの流れに台詞が整えられている。

朝起きたら、あ、これはミノベくんって人の話なんですけど、ホテルだったんですね朝起きたら、あれなんでホテルにいるんだ俺って思ったんですけど、しかも隣りに誰だよこいつ知らねえっていう女がなんか寝てるよって思ったんですけど、でもすぐ思い出したんですけど……
『リクリエイテッド版』6p

 最もわかりやすい変化は、「なんか寝てるよとか思って、っていう、」の「っていう」が削除されているところだろう。「っていう」を挿入してまで確保していた「ノイズの書き込み」がキャンセリングされている、すなわち宙吊りされた俳優の身体にノイズを書き込むことで彼/彼女を「踊らせる」介入的なプラクティスとしてテクストが使われていない。誤解を恐れずにいえば、ここでテクストは意味=サウンドと暗号=ノイズが混じり合ったアンビエントなアマルガムとして、俳優も観客も区別なく耳をすませることを要請する「世界-環境-音」になったのである。どういうことか。

Ⅲ. ノイズの集積からイメージの潜勢力へ

 『リクリエイテッド版』のあとがきで、岡田は「〈想像〉に空間というボディを与える」と書いている。俳優の身体を媒介にして「空間」を想像的に変容させる……と一応の理解はできるのだが、12月1日のソワレを見た段階で、私にはその意味がさっぱりわからなかった。単にアップデートされた「若者」の再現―若さの表象―にしか見えなかったからだ。それで再度、3日マチネを観劇したところ、あることに気付いた。テクストのサウンドとは全く無関係な時間が「身振り」の位相から聴こえてくる、ということに。
 オリジナル版では、コミュニカティブな関係の書き込みが集積していく「記憶=廃棄物の処理場」のように俳優の身体はあった。だがあくまで、その作用因となるのはテクストであり、テクストの時間が呼び水となって〈いま・ここ〉にノイジーな瞬間的記憶を顕在化させていった。しかし、『三月の5日間』リクリエーションでは、テクストが〈いま・ここ〉を牽引する主調音として機能していないことに、私たちは驚くべきだろう。テクストが解体されたわけではない。空間・身体・観客はあらかじめ二重化され、あたかも二つの上演を一つの舞台で同時に観るように、一人の観客は二人に分裂するのである。テクストが開示する〈いま・ここ〉と、身振りによって触知可能になるヴァーチャルな〈いま・ここ〉に上演は引き裂かれ、二つのラインは統合されることなく終始一貫して並列的に走るのだ。
 そのどちらにも同時に集中することは、原理的に出来ない。身振りが触知させる空間―それは客観的には完全なる無である―に感応する観客にとって、テクストは〈外〉から聞こえてくるノイズ=暗号である。なおかつ身振りが触発するあり得たかもしれない複数の「可能世界」の襞を開くサウンド=意味でもある。例えば「なんか漠然としたヤッてる映像」「次の記憶」「憶えてないとか」「ケモノ」「巡航ミサイル限定空爆開始」「すぐ隣で、おんなじところでベッドの、寝てんだよすぐ横で」といった語の断片が、その場面のコンテクストから遊離してヴァーチャルな領域を触知させるアンビエント=世界-環境-音となるのである。

 そうしたアンビエントの触媒となるのが、本作の身振りが持つ特異な力であるが、注意したいのは、その身振りが開く圏域は、オリジナル版のノイジーな身体が無数の記憶の痕跡を身体に書き込み顕在化させるものであったのに反して、そのように顕在化したアクチュアルな〈いま・ここ〉においては隠蔽されていくヴァーチャルな記憶の潜勢態である、ということだ。
 ここで、アガンベンの「身振りについての覚え書き」という短い断章が、参考になるように思う。アガンベンは、アリストテレスが定義する「制作―ポイエーシス」が目的のための手段であり、「行為―プラクティス」はそれ自体が目的であるとすれば、身振りは目的との連関を持たない「目的を欠いた純粋な手段性の圏域」だと言った。つまり「身振り」が示すのは、〈いま・ここ〉を結実させる機能ではなく、それが遂行されているということそれ自体、〈いま・ここ〉へと汲み尽くしきれない可能性の領域が存在するという「想像する可能性の想像力」それ自体である。本作における「身振り」の力は、まさに観客が「想像する」にとどまらない、「想像する可能性が現実に埋め込まれていることを想像する―そしてそれは常にいつも尽きることのないプールのようにある―」イメージの潜勢力なのである。
 もし、すべて現実がパフォーマンスによって顕在化するのであれば、私たちは日本も戦争に巻き込まれていたかもしれない分岐した未来の記憶をすぐさま忘却してしまうことだろう。それは実際には起こらなかった未来だからだ。しかし、この世界が複数の可能性の束であるとすれば、「なんか漠然としたヤッてる―戦争してる―映像」は、私の想像力の外部で、この世界線のうちにその痕跡を残しているかも知れず、そのヴァーチャルな記憶―イメージの潜勢力―が身体へと襲来する「身振り」の位相で瞬間的に閃き現れる。例えば、1場の女性が寒風に振るえるように自分のからだを(右手で左腕を)さすり、何か恐るべき光景に目を見張るように眼球を動かすのは、まさに幻視された過去の未来から到来するヴァイブレーションに、その目を奪われているからであり、4場のまるで死体を足で小突くような女の身振りは、そこに転がるもの―死体のような―を確かめずにはいられないからであり、中空に浮かぶ灰色の直方体を見上げる女は崩れ去るビルを指し示すために人差し指を伸ばすのである。
 冒頭に述べたように、これは私の妄想である。これが確かであることを立証することはできない。ゆえにリクリエーションなのだ。イメージの潜勢力とは上演されるたびごとに異なる相貌をたたえる記憶のプールに汲み尽くしえない想像力があることを想像させる「リ・クリエイト」する力なのだから。
 いずれにせよピリオドはまだ打たれない。オリジナル版が身体に書き込んだ「ノイズ=記憶の痕跡」を、「ヴァーチャルなノイズ=可能世界の記憶の痕跡」として飛躍させる『三月の5日間』リクリエーションは、新たなチェルフィッチュの「はじまり」を告げている。

(文字数:4785字)
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  • 渋革まろん

    演出家。座・高円寺劇場創造アカデミー4期修了。 演出家としては、15年より街を散策して謎をはらんだ人間の身振りや行為を観察する「トマソン観察会」を月一開催。トマソンに感謝を捧げる「トマソンのマツリ」を年一開催。詳細はFacebookにて「トマソンのマツリ」で検索。 Twitter :@z_z__z (渋革まろん) Blog : http://marron-shibukawa.hatenablog.com