ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 × チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーションレビュー

selfishからの離脱

 チェルフィッチュが selfish の幼児語であったことを最近知った私が、まだ幼かった頃に勃発したイラク戦争(2003年)を、私と同じように間接的にしか知りえない U-26 の役者によって演じられた『三月の5日間』リクリエーションは、今は亡きツインタワーにワイヤーを通して、綱渡りに興じたあの男のように、幼い発話と身体動作のうちに、時には空回りにさえ見える「シリアスさ」を、通低音として響かせた約90分間の上演であった。
 観劇に際して、つい1ヶ月ほど前に『三月の5日間』(映像)を初めて観たことを告白した上で、だからこそ、私はその記憶を脳裏に鮮明に残したままで、当然のように、その映像を上演のうえに二重写しにして、両者の差異を探ろうとしていた。しかし、私はすぐさまにその二重写しはほとんど意味をなさないことに気づくこととなった。確か に表層的にも何かが変わっていたのだが、もっと根本的に何がという問いを支える「何か」が変わってしまったように感じたのだ。その何かについて、以下では直感的に粗描してみたい。
 初期『三月の5日間』の個人的な衝撃の所以は、イラクと渋谷の間にある弛緩と緊張感、独自の身体動作を可能にする役者の強い身体、平面的な空間に出現する絵画的な舞台照明、この3つの要素にあった。それに対して、今回のリクリエーションには当時の空間的/言語的な落差による緊張感は存在せず、U-26 の役者たちの身体は弱く、そして、舞台には白い斜線が引かれ、奥行きが強調された空間になり、舞台照明は色の変化に抑制されているために平面的な絵画性も感じられない。
 簡単に言えば、その変化は、一つに時間が変わった、二つに役者が変わった、三つに空間が変わったことに、まずは依拠しているのだが、より本質的なものは時間とともに変容したチェルフィッチュの思考と、U-26 の役者陣であるように思う。ただし、約20年のチェルフィッチュと U-26 の役者陣の変化は別々のファクターというよりも、同じ 変容の二つの異なる帰結の表れと考えたほうが自然だろう。今作に限って、見るならば、その変容は二つに大別することができる。一つはイメージと発話する身体、二つはイメージと関係性を持つ身体についての思考の変容である。
 まずは前者から考えてみたい。演劇が身体と発話にメディウムを依拠する限り、同時代の政治/社会状況を、他の芸術形式よりも色濃く反映するとすれば、初期と U-26 の役者とではあまりにも反映するものの間に隔たりが存在する。具体的には初演の役者はイラク戦争を知っており、U-26 は「イラク戦争」を知らないということだ。若いから「知らない」、なんて当たり前すぎるだろうか。
 ここで確認しておくべきは、彼ら(=私)が何を知らないのかといえば、それはイラク戦争のことではなく、同時代的な空気感であるということだ。イラク戦争は客観的事実として語ることはできるものの、当時の空気感に対しては経験せずには語り得ないからだ。その意味で、私たちは常に間接話法をとることをなかば強いられると言ってもいいだろう。初期『三月の5日間』の役者が間接話法に対して、それを技術として間接的に捉えた上で身体化していたのとは対照的に、U-26 の役者はデフォルトとしてある間 接話法との直接的な距離感を一旦、解除してから、再インストールする作業が必要であったことが想像されるのだ。
 また、岡田利規が『遡行:変形していくための演劇論』において、理論から非理論への移行を書き記していたことを思い出せば、そのような身体訓練から非訓練化の過程は、自然な身体の解放などといったエコロジカルなものでは当然なかったことも付け加えておこう。U-26 の役者によって達成されたものは、私たちがイラク戦争を世代的に「知らない」ことによる現実的な間接話法と、解除・再インストールされた技術的な間接話法の間の揺れ動き、どちらかに重心を傾けては、翻す、その綱渡りの作業であったのだから。あの独自の身体動作とその発話から、あるイメージが立ち上がるとすれば、その場所は、糸にも近い幾本かの綱の上なのである。
 次に後者、イメージと関係性を持つ身体について考えてみたい。今作では、舞台上に引かれた奥行きを示すかのような白い斜線の上で、役者たちが綱渡りを繰り返す、約90分の身体/発話形式とともに、複数人が互いを見ずにして、互いの身体を平行に並べたり、歩幅を揃えたりすることで、互いに影響を与え合う身体動作を随所に見ることができた。見えているのに、見ないふりをして、あるいは見ずにして行われる、役者同士 の絡み合いは、三美神の彫刻のようにも、あるいはルネ・マグリットの描く《恋人たち》の白い布越しに接吻をし合う男女の間接的であるがゆえに抑圧された欲望の発露との近接を感じさせる。つまり、一人の身体の(かつてキュビズム的と形容された)動作は、今作では複数の身体同士の関係性に還元されつつあったのではないか。
 岡田は『遡行:変形していくための演劇論』において、例えば六本木であれば、そのイメージを身体動作に反映させるために、役者との徹底的なイメージの輪郭化と共有をはかるという、いわば「イメージ主義」と呼ぶべき理論について書き、また役者の単一的な身体に宿っていたイメージが、複数の観客の側に委ねられていくという、イメージの所在の変遷についても触れていた。初期『三月の5日間』が単一の身体のキュビズム的動作のうちに、イメージの分解と再構成を求めていたとすれば、その後一旦、複数の観客側を経由して、今作において、そのイメージは複数の身体によって生成される見えない関係性のうちに宿っていた可能性がある。見えない関係性は、一つの基準としての(舞台上の)白線からのズレとしてだけ、その痕跡を感知することができることを考えれば、今作は初期の明確なイメージとは対照的に、不明瞭で「不定型なイメージ」を喚起させる。関係性のうちに、不定に胡散霧消しつつある状況は、逆説的に、イメージ主義の終焉を知らせる残り香なのかもしれない。もちろん、イメージの終わりは selfish からの離脱を意味している。

(文字数:2473字)
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  • みなみしま

    1994年/東京芸術大学/修士一年/20世紀イタリア美術/Twitter:@muik99/(美術)批評再生塾