ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 × チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーションレビュー

欲望と現実の交差にみるどうしようもない私たちの本音は息切れと共に語られる

2017年12月3日、日曜日の18時、チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーションを観た。

チェルフィッチュ『三月の5日間』を観たのは、1ヶ月ほど前にDVDで観た以来だった。
そのDVDは2006年収録のもののようだ。(収録日:2006年3月14日)

チェルフィッチュ『三月の5日間』の舞台は2003年3月20日前後であるから
それよりも3年後ということになり、2017年から見れば10年も前のこととなる。

筆者はこの2006年3月14日上演の『三月の5日間』と、2017年12月3日上演の『三月の5日間』の2つしか観ていないので必然的にこの2つを比較して語るしかないのであり、まずはそのことをご承知おき頂きたい。

今回上演した2017年12月リクリエーション版の『三月の5日間』は、KAAT神奈川芸術劇場の作品情報にもある通り、変更点は意外にも多くあるようだ。

「今はむかし、二〇〇三年三月の、イラク戦争が開戦した頃の東京を舞台にした芝居です。このひとむかし前の戯曲を新しい仕方で、若い(かつ力強い)七人の役者によって上演します。テキストも案外と大幅に書き換えて。二〇一七年十二月の日本で『三月の5日間』が上演されることは何を引き起こすでしょう?」(KAAT神奈川芸術劇場/岡田利規)

一体この劇は、あるいは試みは、私たちに何を引き起こしたのだろうか?

筆者は演劇の専門家ではないので率直な感想を紐解きつつ、「何を引き起こしたか」について考えていきたいと思う。

まず最初に現れたのは2人の女性役者であり、そして、その内の一人は「俺」と語る女性役者(リクリエーション:板橋優里)であった。
『三月の5日間』の冒頭の台詞は、とても印象的なのですぐに思い出せる人も多いだろう。現れた板橋が語ったのはこのようなものだ。
「それじゃ『三月の5日間』ってのをはじめようって思うんですけど、第一日目は、まずこれは去年の三月っていう設定でこれからやってこうって思ってるんですけど、朝起きたら、なんか、ミノベって男の話なんですけど、ホテルだったんですよ朝起きたら、なんでホテルにいるんだ俺とか思って、しかも隣にいる女が誰だよこいつしらねえっていうのがいて、なんか寝てるよとか思って、っていう、」(2006年版のDVD Amazon作品情報より抜粋、2017年版台詞の変更の可能性あり)

ここでまず強烈な違和感がもたらされた。

女性役者、男性役者と言うととても古くさいジェンダー観であるように思えなくもない。筆者である私自身とても違和感がある。しかしこの演劇に限っては語られている人物が男性であるか、女性であるか、語っている人物が男性であるか、女性であるか、はとても重要なことであるように思う。

実際、2006年版の『三月の5日間』では、男性の役を男性が演じ、女性の役を女性が演じていた。
だからこそ生まれるすれ違いやエロスがあった。
しかし今回は少し事情が違っていたように思う。

つまり何が言いたいかというと、ミノベ役の女性役者はミノベになりつつ、語り手になりつつ、相手役のユッキーも想像させる、バラバラであり複合的でもある、誰かであり誰でもない身体であるように感じたのだ。
役者が語りを担うという『三月の5日間』の新しさについてはもうすでに散々語られたことだろう。しかし今回は、そのことだけでなく、性別の枠も越えてしまった。その点で新しいと感じた。

そのことをより強く感じたのは、ミノベとユッキーがベッドで語り合うシーンを一人の女性役者(リクリエーション:渋谷采郁)が演じた時だった。

その後4人の男女による、2006年版でいうところの山縣太一演じるミノベが股すりを行うシーンへと移るのだが、渋谷采郁の一人芝居はその前のシーンだったと記憶している。台詞が確認できないので正確には違うシーンだったかもしれない。

実際に、役者の男女比率も見事に反転しているようだ。(オリジナル版は男五人・女二人、リクリエイテッド版は男二人・女五人で演じられる/三月の5日間[リクリエイテッド版] Amazon内容紹介より抜粋)

エロスについてここで触れておくと、今回のリクリエーション版は24歳以下ということもあって、2006年版で感じたアダルティな雰囲気というよりもフレッシュなエロさを感じた。先ほど「性別の枠を越えた」と言ったがやはりここでもそうで、つまり男性女性の(ヘテロな)性関係を示唆しながらも、女性同士、男性同士の関係も見えるという、ジェンダーフリーなエロスが見えた。それはやはり、女性が多い、女性が男性役を担っている、というところが影響しているのだろう。

話を戻そう。そんな風にして、1人が2人、2人が1人、2人が4人、と、役に対しての役者、役者に対しての役が、増えたり減ったりしながら物語が進行していったのだが、
そんな中、1役1役者を演じた(ように感じた)のはミッフィーとユッキーであった。

ミッフィー(リクリエーション:朝倉千恵子)はミノベの友人で、映画館で出会ったアズマに言いよるも振られるいわゆる「イタイ」少女である。彼女は傷心のまま自宅へ帰り、彼女が言うところの「勉強部屋」にこもり、日課である(その日は反省の)日記をひたすら「語る」。その長丁場な加速するシーンの熱量が、最後のイラク戦争の開始を告げる言葉と相まってズシンと重くのしかかってきた。

2006年版で言うなら、そのシーンはとても楽しいシーンであった。アズマの異様な身振り、ミッフィーの動き台詞空回り全てが笑えた。しかし今回はアズマの印象は薄く、代わりにミッフィーの気迫、息づかい、重々しさが強く強調されることになっていた。

そもそもミッフィーは誰なのか。
メインのストーリーを担うミノベ、ユッキーの5日間のホテル生活とも絡まず、デモにも参加せず、当然アズマとも関係を結べず、ただ部屋の中で独り言をつぶやいているだけである。
どこにも接点を持たない彼女が一番戦争に近い場所にいたというのは意外である。

ミッフィーの「こんな私もう火星に行くべきなんじゃないかなって思う」という台詞は、ミッフィーの自己嫌悪が示された台詞であるのだが、それとは違う別の意味も含み込んでいるのではないかと想像してしまう。(ミッフィーはその台詞のあとなぜ火星に行くべきか力説を始める。)
つまり、「こんな地球/日本出て別の場所へ行きたい」というような我々(と言ってもいいだろう)の本音をミッフィーは代弁しているように思えるのである。

ミッフィーは、単なる「イタイ」電波少女などではなく、当時の気分や今の人々の気分をより反映したキャラクターなのかもしれない。妄想めいた「勉強部屋」という閉じられた空間での一人語りだからこそ、そう思えるのだろう。そしてそこにこそ、この演劇の作り手である岡田利規の本音が隠されているのではないかと思えて仕方ないのだ。

もう一人、ユッキーの話もしたい。ユッキー(リクリエーション:渡邊まな実)は六本木のライブでミノベと知り合い、そのまま渋谷のラブホテルで「即マン」し4泊5日を過ごした、いわゆる当事者であり、物語の主人公とも言える存在だ。
ミッフィーの語りからイラク戦争の開戦へと続き、と同時にユッキーは渋谷のホテルへミノベとこもりその合間にヤスイとイシハラが参加するデモを目撃する。
ユッキーは「なんか旅行みたい」「この5日間のあいだに戦争が終わってるといいね」などとミノベと語りながらホテルで過ごす。その間ユッキーの台詞も、ユッキーに関する語りも存在するのにも関わらずミノベが常に主体で(そもそもミノベの言葉なのかユッキーの言葉なのか曖昧ということもあるのだが)どうしてもユッキーの印象というと、「なんか旅行みたいで楽しい」「ご飯食べるの忘れてたね」「4泊くらいがちょうどいいね」くらいの薄い印象しか残っていない。
その彼女が初めて主体性をもって行動する場面がある。
『三月の5日間』の最後のシーンである、ミノベとユッキーの二人が渋谷の北陸銀行から渋谷駅へ向かうシーンの、『三月の5日間』としてはその一つ前の場面、時間軸としては二人が別れたあとのことだ。

その場面は簡単に言うと、旅行みたいに新鮮に思えた渋谷を堪能したくてミノベと別れたあと、駅からホテルの方へ向かって歩いたユッキーが、排便中のホームレスを「大きな犬」と勘違いし、「人間を犬に見間違えたこと」にショックを受け「吐いて」しまい、駅に戻るといつもの渋谷駅に戻っていた、という内容だった。

「夢から醒める」シーンとしてはとても強烈で、「外国みたい」に思えた渋谷の街から現実の渋谷に引き戻すシーンとしても、とてもいいシーンだと思えるのだが、
なぜユッキーは「人間を犬に見間違えたこと」にショックを受けて「吐いた」のだろうか。

問題はホームレスが排便していたことではなく「見間違えたこと」である。
「人間を犬に見間違えたこと」は現実の渋谷らしい出来事ではなくむしろ、渋谷の駅を行進していたデモ隊がディズニーショップで見せた写真のようなものだったとしたらとても納得だ。
つまりユッキーにとって、「人間を犬に見間違えてしまうこと」はありえない出来事、おぞましいこと、なのであり、そして5日間目をそらし続けてきたこと(まさに!)、なのである。
だから「吐いた」。

ミッフィーとユッキーの「火星へ行きたい」と「見間違えて吐いた」は、欲望と現実(それもどうしようもなく現実的な現実)のように、対立しながらも共鳴するような、そういうシーンだったと思う。

この異様に映った「火星へ行きたい」と「見間違えて吐いた」は強烈に記憶に残り、2017年12月の改変により、より強く導き出されることとなったことには、岡田利規の(あるいは私たちの)隠れた本音を想像しないではいられない。

(文字数:3993字)
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  • 横山 奈穂子

    絵を描いています。批評勉強中。