ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 × チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーションレビュー

だれかの夢を見なおす ―集積する主体から、分散する主体へ―

すでに移人称的な表現と超口語演劇が「アリ」なものとなった2017年、リクリエーションされKAATで上演された『三月の5日間』には、それら以上の意味合いを見出さなければならない。

 『三月の5日間』の舞台は渋谷〜六本木。役者は7人。恋をする男女とその周辺の話だ。男女は六本木のライブハウスで知り合い、そのまま渋谷のラブホテルに直行したのち、イラク戦争で騒がしくなった世間を尻目に、互いの名も知らぬまま5日間にわたってセックスを重ねる。にわかには信じてもらえない白昼夢のような話を、もう二度と繰り返せない奇跡のような話を、再現と回想と伝聞を織りまぜ、なんども触って確かめるようにして演じなおす。そういう演劇である。
夢のような話の輪郭は、それぞれの登場人物の視点から、それぞれの役者の体を通して語られることによって多面的に描きだされる。この2つの「それぞれ」が必ずしも一致しない、という移人称的な表現は、初演のときと同じように今回のリクリエーションでも用いられている。当然、それで何の問題もないのだが、しかし1人が何役も兼ねられる移人称の形式をもはや前提としてしまうならば、状況を演じ伝えるための役者の数は実はもっと少なくたってよいはずで、実際には3人くらいでも回せてしまうのではないか、という可能性が頭をよぎる。
今回、登場人物は6人。初演にはあったスズキというチョイ役がなくなっている。しかし役者は7人。むしろ、役者過多である。そのように演じられることの意味を考える。

1人の役者が移人称的に一人称と三人称を行き来する、だけでなく、様々な役を演じることによって、役者の中には複数の人物の身体が書き込まれ、境界不明瞭な複数の主体が混在する。そのことにかつての観客は驚いた。しかしそれと同じくらい、1人の登場人物の身体が複数の役者に分散し遍在していることにも、真摯に驚く必要がある。
男がライブハウスで、ホテルのベッドで発した言葉が、男女問わぬ複数の役者の口から、一人称的に/三人称的に繰り返される。言葉は一言一句たがわず繰り返されるのではなく、そのたびに微妙に揺れ動く。それは、我々が記憶をたどるときの曖昧さとよく似ている。そしてそれらの言葉は、役者の固有の身体を通して、その身体に刻みこまれた歴史を表象するかのような奇妙な振付とともに、その都度全く異なる響きで発せられる。
まるで、楽器のようである。いくつもの異なる楽器で同じフレーズを繰り返し奏でることによって、そのフレーズの確からしさに近づいていこうとするように、複数の役者が一つの言葉を、1人の登場人物を共有し反復する。出会ったばかりの相手をセックスに誘う男を、いかにもそのように見える男性の身体で奏でたのち、そのようなイメージからは程遠い女性の身体で奏でなおしてもみる。複数の楽器はあくまでも等価に鳴らされ、フレーズの響きを1つに固定することなくフレーズの理解に深みを加える。
起こったことを伝えるだけなら、一言一句たがわず演じなおせば事足りる。しかし話の輪郭を一本の線で描ききってしまえば、奇跡のような話も標本のようにひとつの事実へと固定される。つまらない。夢を夢のまま、その曖昧な輪郭を曖昧なまま、しかし説得力をもって描き出すために、過剰な役者の身体と微妙にズレた反復がある。そしてそれは、かつて起こったことを伝えるという人間の営みにおいて、普遍的に通用する方法論でもあるようにも思われる。
白眉は、1組の男女のピロートークを2組の役者が演じるシーンだろう。1組は寝そべって再現し、1組はそれを見下ろすようにして回想する。役者たちはめまぐるしく場所を変え、ときにカップリングを変え、各人が男と女それぞれの身体をそのつど憑依させながら、同じ場面を繰り返す。たった2人の役にたいして4人もの役者の身体が同時に与えられた結果、我々はかつてないほど普遍性の高いリアリティを経験する。それは、1人1つの固有の身体によって演じられなることをしなかった結果、それぞれの身体に偏在し、あまねく共感される可能性をひらいたままの夢である。

最後のシーンで、登場人物が突如固有の身体を手に入れることで、夢はぷつりと途切れる。夢から醒める感覚をこれほどまでに鮮やかに味わわせる本作は、だれかの夢をみなおすための装置として随一である。

(文字数:1769字)
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