ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 × チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーションレビュー

「不在のバンド」を「語る」役者たち
 —女性が演じる冒頭のミノベについて—

 今回の『三月の5日間』リクリエーションを観て、これまでに『三月の5日間』を観たことがあってなくても、誰もがまず驚くのは「『三月の5日間』という『演劇』」がはじまってすぐ、「ミノベ」という男について舞台上で語る人物が女性であるということだろう。
 なぜこれが驚くべきことかといえば、佐々木敦がこの演劇について「『アクター』たちが『ナレーター』と『キャラクター』を自在に往復しながら、『三月の5日間』という『演劇』の内で『三月の5日間』という『物語』を語ってゆく」と分析したように、ミノベについて語る「ナレーター」はミノベのことを語っていながら次第にミノベという「キャラクター」へと変化し、それがいつの間にかまた「ナレーター」へと逆戻りするという形を繰り返すからである。しかも、ミノベという「キャラクター」の部分で発せられるセリフには「即マン」や「ナマでやっちゃった」などの男性同士のホモソーシャルコミュニティでしか語られないような、いささか女性蔑視ともとれるようなものも含まれているからである。
 そもそもオリジナルの『三月の5日間』では、冒頭に登場するふたりの役者はどちらも男性だったが、それが今回の「リクリエーション版」ではそれがどちらも女性になっている。ではこの改変は「アクター」と「キャラクター」との等号関係を希薄にさせた「『三月の5日間』という『演劇』」をより洗練させるため、という意図のみによって行われたものであるかといえばそうではない。この改変によって、『三月の5日間』の冒頭で誰が誰に対して話しているのかという構図にも変化が生まれているのだ。

 「リクリエーション版」の冒頭に登場するふたりの役者が女性になったことによって、誰が誰に対して話しているのかという構図が変化した。ではこの構図の変化について早速説明していきたいのだが、それにはまずこの「『三月の5日間』という『演劇』」で言及されていながら唯一、役者によって直接演じられていない人物たち、つまりはその人物たちについて冒頭ですでに「ナレーション」されていながらも、「キャラクター」として演じられていない人物たちについての説明をしなければならない。その人物たちとは、ミノベと渋谷で「5日間」をすごすことになる女性「ユッキー」とが出会うきっかけとなったライブを、六本木にあるライブハウス「Super Deluxe」で行なっていた「カナダから来たバンド」のメンバーたちである。
 「『三月の5日間』という『演劇』」の冒頭では、ふたりが六本木のライブハウスで出会い、意気投合した結果、タクシーで渋谷のラブホテルに向かったという経緯が語られる。そして、なぜ意気投合したかといえばそこで行われていた「カナダから来たバンド」のライブがよかったという話で盛り上がったためである。そこでユッキーは「なんか、私は歌っていうか曲もね、よかったんだけどね、でもなんかすごい途中でMC入ったでしょ、あのMCが超すごいよくてすごい感動したんだど」とミノベに対して語る。しかし、「カナダからきたバンド」は当然MCも英語で行われており、ミノベは「あ、すげえ、英語わかるんだ、俺全然わかんないんだけど、え、じゃああのMCなんて言ったかわかったんだ」とユッキーに対して話したということが語られる。つまりここでは、同じ場にいたはずのミノベ/ユッキーのふたりにも「カナダから来たバンド」のMCがわからない/わかるという違いが発生しているのである。そのため「『三月の5日間』という『演劇』」の中に内包されている「『三月の5日間』という『物語』」の中にも「ナレーター」という役割が発生するのである。

 では、ここでようやく『三月の5日間』と「リクリエーション版」での冒頭の誰が誰に対して話しているのかという構図の違いについて説明しよう。冒頭に登場するふたりを戯曲にならって『三月の5日間』では「男優1」「男優2」と「リクリエーション版」では「1A」「1B」と呼ぼう。それぞれ「男優1」「1A」の方がこの場面では主にセリフを発する役者である。
 『三月の5日間』では、冒頭に舞台に登場するふたりは男性である。そのため「物語」の中では、この場面は「5日間」が終わったあと、ミノベの「5日間」の思い出を友人に語るという場面であると想像できる。つまり「男優1」は「ナレーター」/「ミノベというキャラクター」という切り替わりと同時に「観客」/「男優2」というように「ナレーションをする相手」を切り替えているということになる。また、「男優1」が「カナダから来たバンド」のMCのセリフを発する際には「ミノベというキャラクター」を通して発せられることになるのだがミノベは英語がわからない。そのため、ミノベは「ユッキーから聞いた『カナダから来たバンド』のMC」を「男優2」に対して説明しているということになる。つまりは、「男優1」は「『ミノベというキャラクター』が『ユッキーというキャラクター』から聞いた『カナダから来たバンド』のMC』を友人役である『男優2』に対して説明している」という場面を演じていることになるのだ。
 自分で書いていても正しく書けているのかなんとも不安になる複雑な構図を『三月の5日間』では採用しているのだが、この構図が「リクリエーション版」になるとどう変化しているのか。
 「リクリエーション版」では、これまでに何度も書いているが、冒頭に登場するふたりは女性である。それによって「リクリエーション版」では冒頭の場面が「5日間」の最中、まさに今語られている「1日目」であり、ライブが終わった「まったりタイム」の場面ということがわかる。なぜなら、「1B」が誰を演じているかといえば、まさにこの「物語」の当事者であるユッキーを演じているのだ。「1B」は「1A」に対して、質問に答えるかたちで「『ユッキーというキャラクター』として『カナダから来たバンド』のMCの説明」をしている。このことによって、「リクリエーション版」の冒頭が、まさに「5日間」の最中の場面であるということがわかるのだ。
 でもこれでは少々おかしなことになってしまう。なぜなら、この演劇の最初に発せられる「それじゃあ『三月の5日間』ってのをはじめようと思うんですけど」というセリフが発せられた時点で、この場面が「『三月の5日間』という『物語』」を俯瞰して語っているということになってしまい、「5日間」の最中の場面ということと矛盾してしまうからだ。だが「リクリエーション版」では、これが矛盾しない形で両立しているのだ。どうしてなのか、これから説明しよう。
 『三月の5日間』で僕は「ナレーター」と「キャラクター」が切り替わると同時に「ナレーションをする相手」を切り替えていると説明した。しかし、これが「リクリエーション版」ではうまくあてはまらない。なぜなら「1A」が「ミノベというキャラクター」として「1B」に「ナレーション」しようにも、「1B」の演じる「キャラクター」がユッキーであるために、この「ナレーション」は成立しないのだ。しかし、「1A」のセリフを見てみるとやはり「キャラクター」として「ナレーション」が行われている部分がある。この問題をどう解決すればいいのだろうか。
 この問題を解決するために「リクリエーション版」では、「舞台上の状況」そのものを切り替えているのではないだろうか。こう考えなければならない理由を順に確認していこう。まず、「ナレーター」は「物語」の外にいるため、「ナレーションをする相手」として観客を選んでいる。これは『三月の5日間』と同様の構図だ。問題なのは「ミノベというキャラクター」である。「1A」が「ミノベというキャラクター」を演じる際、ミノベは「5日間」の外にいて「ナレーション」をしていると同時に「1日目」という場面で「1B」が演じる「ユッキーというキャラクター」と会話をしている。そのため行き場を失った「ナレーション」は「ナレーター」が発する「ナレーション」同様に観客に向かう。つまり「リクリエーション版」では、「ナレーター」と「キャラクター」が切り替わるときにではなく、「キャラクター」が「ナレーション」をするか「別の登場人物と話す」かというふたつを切り替えの瞬間に選んでいるのである。そして、「キャラクター」が「別の登場人物と話す」際にはそのまま隣にいる役者に話しかけるのだが、その「キャラクター」がひとたび「ナレーション」をするときには、まるで舞台に自分以外に役者など存在しないかのように、観客に対して振る舞うのである。
 「リクリエーション版」は単純に男女比が逆転したという変化だけではなく、そのことによってこのような構図の変化までもが行われているのである。『三月の5日間』は、その登場によって演劇というジャンルを超えた創作物の「語り」の方法をアップデートしてきた。今回の「リクリエーション版」の「語り」の変化によってふたたび、ジャンルをこえた「語り」の化学反応が起こることを期待しよう。

*本文でのセリフはすべて、岡田利規『三月の5日間[リクエイテッド版]』(2017年、白水社)による。

(文字数:3675字)
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  • 吉原 啓介

    大学院生。これまでの実績は特にありません。中学生のときの部活は強かったのですが、僕は補欠でした。