ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 × チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーションレビュー

『三月の5日間』リクリエーションの3つの台詞の英語字幕について、あるいは「どういう流れで戦争になったんだっけ?」

 12月、チェルフィッチュのカンパニー結成20周年を記念したツアー公演『三月の5日間』が横浜の神奈川芸術劇場(KAAT)で幕を開けた。2004年に初演されたチェル フィッチュの代表作である本作は同年の岸田國士戯曲賞を受賞。内容は、2003年3月 の渋谷を舞台に、ライブハウスで偶然出会った20代の男女が円山町のラブホテルでセッ クスをしながら5日間を過ごす、その裏ではイラクで戦争が始まり、渋谷から六本木にか けて街頭で戦争反対を訴えるデモが繰り広げられるというものだ。一人に一つ役が振り分 けられるわけではなく、それぞれが目の前の状況を撮影したカメラの視点のようになり、 ばらばらの場所と時間で起こったこと、そこで話された会話をつらつらと緩慢な口語で報 告していく。この斬新な手法が話題を集め、国内外で何度も再演された。
 今回の企画では、主宰の岡田が本戯曲の中国でのリーディング公演に触発されたとして、 25歳以下の俳優を公募し、300人以上から選ばれた男性2人、女性5人が出演してい る。これまでの劇団による『三月の5日間』では一部キャストの入れ替えはあったものの、 山縣太一や松村翔子といった俳優が、一貫して出演してきた。それをふまえるなら、今回 遂に出演者に依存しない戯曲自体の強度が初めて大きく試された公演となったのではない だろうか。無論、他劇団や学生による公演も劇団の外では行われてきたであろうが、劇団 による公式な、文字通りの「リクリエーション」は初となる。そしてその試みは大きく成功したようだ。
 トラフ建設設計事務所による、黒地の床に舞台奥に向かって山形になるように白いスト ライプの線が6本引かれた美術は役者と観客が舞台の空間構成を見るときのグリッドのよ うに機能し、左右、前後に動きながら互いの関係性を変えてみせる役者のポーズや動きを 見やすくさせる。六本木の地理を説明するときの板橋のダイナミックな身振り手振りや、 第7場のラブホテルの寝室における親密な空間性を表現する石倉、渋谷、中間、米川のコ ンポジション、第6場の渋谷のリリカルなモノローグはよくコントロールされており、決 して見飽きることはない。しかし、良くも悪くも流れるような台詞や劇の構成、舞台装置 や美術自体がかなりフレームワークとしての力を発揮する公演だった。これは、ある意味 戯曲として『三月の5日間』が本領発揮したと言えるかもしれない。
 東京六本木のライブハウス Super Deluxx や、横浜の ST スポットといった役者と観客の 距離感が濃密な関係を成立させる小さな環境での公演とは打って変わって、KAAT のブ ラックボックスは、巨大なシェルターのように感じられた。また、丈夫で安全な場所に並 ぶ若い出演者たちの身体は小さく弱々しくも見えた。それ自体が決して作品に対するネガ ティブな評価だとは思わないが、この印象には俳優たちの頭上に出現した英語字幕投影用 の黒い箱のちょっとした圧迫感にも起因している。この箱が一定の存在感を発揮したこと と、チェルフィッチュのレパートリーに『地面と床』という衰退していく国を舞台にした 家族の物語の中で消えゆく母国語として日本語が描かれたことは決して無関係ではないだ ろう。
 今回の『三月の5日間』で印象的だった3つ台詞/英語字幕を取り上げたい。まず、最 も強く印象に残ったのが「Who it was that suggested?(どういう流れでそういうことになっ たんだっけ?)」だ。この台詞と英訳の関係がいわゆる移人称と呼ばれる、本作の特徴を よく表してはいないだろうか。一人に一つの役が与えられるわけではない。例えば冒頭で は二人の女優が、出会ったその日に女の子とセックスをした男の話をするような芝居だ。 台詞にある、なぜ「そういうことになったのか」の責任の所在を人称、つまり「誰」の所 為かに求めているということは英語に翻訳されて初めて明らかになる。日本語の中で責任は「流れ」という言葉の中に流れてしまっている。
 もう少しこの台詞について見てみよう。ここで問うている「そういうこと」とはラブホ テルで出会った男女が5日間セックスに明け暮れた後、もうそれ以降会わないし、連絡も とらないことにしようと取り決めたときの台詞だ。本作は渋谷のライブハウスで偶然出 会った男女がセックスに至るまでの話だが、結局ポルノのようにそのセックスを描くこと はせず、そのようにして出会った二人がどのように関係を築き、そして別れるかについて 言葉が紡がれている。そのセックスにイラク戦争の模様がオーバーラップされていること は既に述べた。
 出演者の年齢は20〜26歳。イラク戦争が起きた当時は6〜12歳といったところだろうか。今回の公演がフレームワークとしてこれだけかなり頑丈に機能しているのだから、いずれイラク戦争が終わった後に生まれた世代の俳優がこれを上演したとしてもきっとそ れなりの作品に仕上がるだろう。そしてそれは俳優の世代によってかなり違った印象を観 客に与えるだろう。ここでは、移人称というものが、上演当時は役者同士の当事者の転換、「役」という責任のなすりつけあいのように見えたのが、今回は世代を超えた移人称へと 変わって見え始める。上演から上演へ、世代から世代へ当事者たちは移っていく。今回 『三月の5日間』という戯曲はある意味で、初めて当事者感覚のないものたちによる上演を経験した。
 戯曲の本領発揮はある意味で、この上演という営みに対して戯曲が発揮するコード=法 典のような役割を強調した。彼らはイラク戦争のことをほとんど知らない。誰が始めたか 知らない戦争あるいはセックスの話をして、誰が決めたかわからないルールに従い、それにそって「そういう流れで」お互いの関係性を築いていく。法典=コードという言い方をしたが、チェルフィッチュのやわらかい言葉遣いにそうした硬質な機能は見当たらない。そこが岡田の文学者としての魅力に感じる。パロールからいかに取り決めが生まれ、そこに共同体ができるかという話にこの作品は姿を変え始める。戯曲は共同体の法典に姿を帰る。確かに青春そのものを描いた作品だ。共同体の幼年期を上演していると見えるのだから。
 本来男女の営みを強調するはずのラブホテルの寝室に4人の俳優が登場したとき、うち二人は寝転び、実際にはそこに低い天井としての字幕の投影される天井の物体やブラックボックスと、窓のない壁に囲まれ、シェルターのような空間がそこに広がることは特筆す べきだ。偶然ある場所に集まり、偶然出会った人たちが、知らない人が作った言葉で関係 を持ち始める。
 もう一つ印象に残った字幕について。ラブホテルの外で食事を済ませた男女はそこに「帰る(go home)」と言い始めた自分たちに気づく。これもまた英語に翻訳されて初めて home という場所の性質を帯びた言葉が出現する。そこに居合わせたのがカップルではな く4人になることでその場所は帰るべき共同体に変わる。
 今回の公演に関して、1991〜1997 年に生まれた俳優たちによる上演はか弱い劇に感じた。それは日本の現代の若者が、そうした前の世代が決めた取り決めや慣習とうまく距離を取りながらもぞもぞと集まる共同体のように見えたからかもしれない。その印象は国や 時代が変わればいくらでも変容していくだろう。
 最後にもう一つ印象に残った台詞をとりあげる。ここで描かれる5日間に集まったキャ ラクターたち、とりわけメインのカップルはまたどこかで自分たちがばったり出会ったりしないか心配している。せっかく二人はもう二度と連絡を取らないと決めたのだ。でも聞 かれたほうが大丈夫だという、なぜなら「And so we`ll get older(あとさ、歳もとるし)」。 ここに出演した彼らが今の彼らでなくなればまた別の誰かがこのコードを守るのだろう。
 こうしてまた別の、渋谷もイラク戦争もラブホテルも知らない世代がこれを上演する日が来ることを期待したい。

(文字数:3160字)
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  • イトウモ

    1990生れ。岐阜県出身。京都大学文学部美学ゼミ学部卒。卒業論文の題材はデヴィッド・リンチ。大学在学中に演劇活動で演出、脚本など。Twitter:@gomzo__i