ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 × チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーションレビュー

分裂し融解する若者のカンバセーション

『三月の5日間』の初演が行われたのは、2004年のことだった。

『三月の5日間』においては、誰かが誰かのことを話しているうちに、誰かと誰かの区別がつかなくなり、しかもそれがさらに違う誰かに転移していく。批評家の佐々木敦の言葉を借りれば、そこでは複数の「演じる者」と「演じられる者」そして「語る者」と「語られる者」が分離されて、交換されたり移動したりを繰り返していく。この語りの循環がもたらすものとは何か。それは「誰かの話を語る私」「私の話を語る誰か」から、「誰か」と「私」を抜くことで得られる「〜の話を語る」という文型の行為に他ならない、と佐々木は指摘する。これはつまり、「ナラティヴ」の前景化である。

ここで述べたのは彼の論考(『新しい小説のために』所収)のごく一部だが、以上のような佐々木の分析は、岡田利規が演出したこの作品の芯を的確に捉えている。

そして2017年、『三月の5日間』はリクリエーションとして私たちの前に戻ってきた。何と言っても、今回私たちが注目してしまうのは、1990年以降に生まれた若き役者陣の存在であろう。彼らによって生み出される新しい『三月の5日間』とは、どのようなものになるのか。先に答えを述べておくならば、過去の『三月の5日間』の特徴を残しつつ、新たな舞台で現出したのは、平成に生まれた若者のリアルと「語り手」の前景化であった。

現代の若者の語り方、それはまさに直接的な発話と間接的な発話に分離する。前者とは実際の会話で発せられる「声」、後者を代表するのはTwitterなどネット上に現出する「声」や、自身の中にある心の「声」である。

現代ネットワーク社会に生きる若者にとっては、外向きと内向きの両方のベクトルへ言葉を発することが当たり前になっている。直接の会話で言えなかった自分の本心をネット上で言葉にすることは容易だし、逆にネット上で建て前を述べ、直接の会話の中で本心をさらけ出すこともできる。

ここで重要なのは、テクノロジーの発展により、相手に伝わる言葉と自分の心に止める言葉が瞬時に絶え間なくクロスするような、新しい語りの性質が若者に「定着」しているということである。青春時代をネット環境に囲まれて過ごした平成生まれの若者にとっては、二方向に向けた言葉の狭間で揺れ動くことが、自然になっているのだ。

リクリエーションされた『三月の5日間』でも、現代の若者の姿は、そのような二重の語りを通して描かれる。特に印象的なのは第7場である。以前までの『三月の5日間』ならば、ここは観客にとって、ユッキーとミノべが2人で会話を交わしている(ように見える)場面であった。役者は男女1人ずつしか、その会話の中に存在しなかった。しかしながら、リクリエーション版では男女のペアがもう一つ増え、舞台上には4人の役者が存在する。

第7場で行われる4つの語りを、ミノべ(直接の発話)、ミノべ(心の声)、ユッキー(直接の発話)、ユッキー(心の声)と仮に分けて考えてみよう。そうすることによって、若者の揺れ動く二重の語りをいくらか捉えやすくなる。最終的には、ミノべとユッキーそれぞれの分裂は、前景化されたあとでその分断線を緩やかに消滅させていく。心の声でありながら、「それは相手に聞こえてしまっている」し、会話を推し進めていく。なぜならそれこそが、自分の内と外を高速で言葉が行き交いする、若者の語りのリアルだからである。

第7場を、戯曲『三月の5日間』[リクリエイテッド版]から引用する。

7A さっきからそういうふうに動いてるのって、私、逆の意味なのかなと思ってたんですけど、太ももの内側のところこうやってさするみたいな動きをときどきさっきからやってるなってのは気づいてたんですけど、でも動きの意味は勘違いしてて逆に思ってたんですけど、

7D あ、逆って、まだヤリたいと思ってる人みたいに見えてた? や、ないでしょそれは、ヤリたいっつってこんな動きしてたら。それちょっとわかり易すぎでしょ、サルでしょそれじゃ、

買いすぎたかな三ダースは正直、でも足りないってなるよりは買いすぎましたってほうがまだいいよね、別に腐るもんじゃないしね、でもあれか、余っても余り持ち帰ったりはしないかたぶん、ね、持ち帰ったりするのはちょっとね、あれだよね、

7B 朝起きたら最初、どこだよここ? って思って、しかも隣に誰だよこいつ知らねえっていう女が寝てるんだけど、っていうのがいて、でも思い出してきて、あ、きのうの夜そういえば、なんかそういうことあったかも、っていうかあった、そうだここ渋谷のラブホだ、あー思い出してきたわだんだん、ライブハウスからタクって直行したわっていう、

ここで、7Aは伝える意図を持って語るユッキーの役割、7Dは伝える意図を持って語るミノべの役割、そして7Bには分裂するミノべの内的な語りが現れていると仮定することができる。

続けて、少し後の場面を見てみよう。

7D だって、や、こんなこと言っても怒ったりしない人だと思うから言うんだけど、この先もいつまでもみたいなことになろう的なこと、確認なんだけど、思ってないよね俺と? これからもいつまでもみたいなのとは俺たち無関係でいいと思ってるよね?

7A うん思ってる、

7D うん、だよね、いいよね無関係で?

7A うんいいと思う、

7D そういうのわかるでしょ?

7A わかるよ、

7D わかるよね、でもさ、すごいよね、これ何気に結構奇跡的なことだと思うんだよね、そういうことわかる人とこうやっていられたっていうのは、スペシャルだと思うよ、そういうことわかる人との、超スペシャルな5日間だなって思うっていうか、みんながそういうことわかる人だったら戦争なんで絶対起こらないんじゃないかと思うよ、

7C 「ほんと結構奇跡かもって思う、超スペシャルな5日間だと思う」ってなんか私たち、ほんとに付き合ってるみたいだなっていうそのときだけ、瞬間だなって思ったんですけど、

7D 超スペシャルとか言って、ただヤってただけっていう話もあるけど、でも、二ダースちょいってそこまでハイペースなほうじゃないよね?

7C や、わりとハイペースなほうじゃないかと思いますけど、

7D ねえあれだよね、東京だよね、いつも生活のメイン過ごしたりしてるのって、や、俺もそうなんだけどさ、や、この先できるだけもう偶然に会っちゃったりとかもないといいけどね、って思って、

せっかく何も交換したりしてないんだから、名前も言ってないし、

7A 会わないよ、大丈夫だよ、

ここで、7Cもまた、分裂するユッキーの語りが役者の身体と演技を通して現出したものであると仮定することができる。ミノべとの関係に少しの希望を感じたユッキーに対し、ミノべはそれを残酷さと共に突き放す。ユッキーは現実を受け止めていく中で、2重の語りに分裂する。

ユッキーの感情の振動が導かれるとき、舞台上の7C(ユッキー Inside)は、7A(ユッキー Outside)のそばを離れ、7D(ミノべ Outside)の斜め後方に移動し、そこから彼に語りかける。そのとき、7Cは舞台上に張り巡らされたテープを持ち上げる。そのテープは、7Dとの間に浮かび上がり、両者を視覚的にも分断する象徴となるのだ。

このように、リクリエーション版『三月の5日間』で起こっていたのは、「ナラティヴ」から「語り手」への繊細な重心移動であった。もちろん、チェルフィッチュにおける「ナラティヴ」の前景化は、決して消えてはいない。それは今も、「アクター」に複数の「ナレーター」や「キャラクター」が代入され続けることによって、優れた芸術としての輪郭を残し続けている。リクリエーション版『三月の5日間』は、そこに現代の若者のリアルを導入し、アップデートさせたものだと言うことができるだろう。

自己の分裂は、自分と自分の心の中だけで生じるわけではない。それは、双方向性を持ってインターネットとの間でも行われている。イシハラとヤスイが参加したデモがどのようなルートを通ったか、一人の演者によって考察される部分を見てみよう。

第9場

9A ・・・六本木通りのほう行くこと考えるんだったらハチ公を起点にするよりモヤイ像とかを起点にした方が全然いいですよね、なのでモヤイ像が中心の地図に地図をちょっと変更したいんですけど、今変更してるんですけど、はい、たぶん変更できたと思うんですけど、それで六本木通りをずうっと行くんですけど、・・・

絶妙に長く絶妙に短い、地図を変更する間(ま)に存在しているもの、それは私たちの語り(=思考)がネットへも分裂している証拠のようにも感じられる。自分の頭の中で地図を書き換える時の一瞬というよりも、グーグルマップで位置を特定したかのような一瞬が、役者の演技によって現出する。ネット社会の中で、自分というモードが常に分裂する若者のリアルを、今作は描き続けるのだ。

今作には、他にも鮮やかな仕掛けが満載である。先に言及した、舞台に張り巡らされたテープ。これに逆らわずに平行移動するミッフィーちゃんの突進は勢いを増し、テープに対して垂直にぶつかるデモ行進はゆっくりと進む。ミッフィーちゃんは自分の意のままに突っ走るが、デモを歩む2人は、毎回隣のリズムを確認してから足を踏み出して行く。彼らは一つタメて、一つ踏み出す。そのような行進の仕方においても、若者の「自分」は常に分裂していることがわかる。

『三月の5日間』を生きる若者たちは、舞台上のテープが象徴するような、見えないアーキテクチャの上で生きている。それは若者を内と外、自身とネットに分裂させ、現代の都市生活を強要する。そのように考えるならば、第7場において、ユッキーが場に潜むアーキテクチャ(テープ)をその手で掴んだことは、ミノべとの壁を強調するだけではなく、彼に、そして私たちに、場から生活を強烈に規定されるという「もう一つの若者のリアル」をも示していたのかもしれない。

(文字数:3986字)
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  • 小川 和輝

    1991年生まれ/慶應義塾大学文学部卒/書籍編集