ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 × チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーションレビュー

複数の「普通」が見た白昼夢

1.

アディダスの長袖スポーツシャツにダボパン。スリットの入ったダボパンだ。三つ編みポニーテールの中間アヤカのファッションは、今回の『三月の5日間』が「リクリエーション」であることを明確に示さないようで示している。

2014年ごろにファッション業界で「ノームコア」という言葉が使われていたのももはやなつかしい。個性的な服装から離れ、自然になじむ、アイデンティティを誇示しない「究極の(=Core)普通(=Normal)」は、黒のタートルネックとブルージーンズを着続けたスティーブ・ジョブスをロールモデルに、ある種のブランド信仰の否定として日本では解釈された。ユニクロやGAPでいいじゃないか。そんな気持ちを後押しする概念として、ノームコアは使われるようになった。いいわけないだろ。コアが簡単に手に入ると思ったら大間違いだ。ノームコアとは「普通」の読み替えだ。「普通」とされているものを別のコードに置き、意味を変える行為だ。しかし、日本では誰もそのことを理解しない。かつて宇多川町のレコードショップZESTの店員として渋谷系の渦中にいた現BIG LOVE店長、仲真史はそのような苛立ちを以下のブログに込めているが、今ではその言葉自体が口にされることもなくなった。

チェコに行きたくなるLightning Gloveと間違いだらけのノームコア(再び) | BIG LOVE RECORDS 仲真史のブログ

『三月の5日間』がかつて、渋谷にいる今の若者の姿を切り取ったファッショナブルな作品だと目されていたのにも、ノームコアに対する反応と同様の無理解が捉えられる。「超・現代口語演劇」という形容からも響く、若者の「リアル」な姿を捉えたチェルフィッチュ像。だが、チェルフィッチュがありのままのリアルを描いたことなどあったのだろうか。そこで現われているのは「リアル」(=普通)の読み替えではないだろうか。

2.

岡田利規は、自分の「普通」と誰かの「普通」を繋げることを、より意識的に行っているようだ。そのことは、キャストが全員女性の『現在地』をはじめチェルフィッチュの上演に女性の演者が増えたこと、そして今回のリクリエーションで男女比が逆転したことにも通じている。自分とは異なる性の中に、自分を繋げてみること。

中間アヤカはスポーツととび職をミックスした恰好をしており、若い女性にとっての「ありのままの」姿とは言えない。むしろ、自分とは異質の「普通」を組み合わせることが、ファッションとしての説得力を生んでいる。異質さは黒という色の統一によって繋ぎあわされる。『三月の5日間』も、円山町のラブホテルで見ず知らずの男女が5日間過ごすこととイラク戦争反対のデモが行われること、互いに異質な風景がたまたま同じ時間を生きたということで繋ぎあわされて、作品のコアが成立する。東くんがライブハウスでミッフィーちゃんがこないか密かな期待を抱いているとき、ミッフィーちゃんは家でブログを書きながら自らのコミュニケーション能力の欠如に対して絶望に陥っている。互いの異なる主観が、共通の時間において両立する。キャラクターとナレーターを七人の演者がかわるがわる演じていくという特徴的な手法も、それぞれが異質な人間たちをその時間にだけ現れる役割の元に繋ぎあわせるものである。『三月の5日間』は、異質なものがその特別な時間においてだけ結びつけられる特別な場であり、リアルな群像劇などでは決してないのだ。

3.

今回のリクリエーションもまた、新たなつなぎ合わせが生まれていたように思う。上演を観ているとき、私は「まるで『三月の5日間』の夢を見ているようだ」という感覚を覚えた。

ラブホに5日間滞在する男ミノベは、阪神淡路大震災の時には高校1年生だったということがセリフで語られる。計算すると、ミノベは1978,79年生まれで、イラク戦争時の2003年3月には24,5歳、2017年12月現在では38,9歳ということになる。リクリエーション版は、現在のミノベ、あるいはユッキーが観た夢であるかのような印象を与える。あの時感じた希望や昂揚のようななにかからは、すでに遠い場所まできてしまっている。あの時間は一体なんだったのだろう。そんな声が、上演中聞こえてくるような気がした。

リクリエーションの演者達は1991~1997年生まれ、2003年3月には5~12歳で、ミノベやユッキーとは一回り以上年が離れている。演者達にとってのリアルな「普通」は、ミノベ達の「普通」とはかけ離れている。20代中盤でフリーターをしていることの意味も全く違うものであるはずだ。自らの世代感覚とは微妙にズレた役柄を演者は演じ続ける。この時間は一体なんなのだろう。そんな声が、上演中聞こえてくるような気がした。

二つの異なる「普通」が上演の場でひとつに重ねられており、それぞれの立場から見ればそれぞれにどこか違和感を覚えるものだ。この事態が、劇に幻想的な効果を与えている。

後半に、ミノベとユッキーの会話は時間軸を行ったり来たりしたながら繰り返されることになる。この演出は初演時にはなかったはずだ。ミノベが所持金を2,000円しかもっていないことを告げるくだり、5日間が終わったらもう偶然でも会わないようにしようと確認しあうくだりが幾度が反復されるが、そのとき二人のキャラクターは四人の演者によって演じられることになる。初演でも、リクリエーション版でも、四人の人物が同時に現われることはなかったように記憶している。キャラクターを演者が交換すると、前からいた演者は一度舞台から消えていたはずなのに、ここでは四人が残って、分裂したまま二つの役の同じシーンを繰り返し演じている。この分裂性と反復性が、二つの「普通」が十数年の時間をおいて重ねられるという別異相の分裂と反復と合わさることで、上演は万華鏡のような幻想性を纏うことになる。

4.

役者の動きを見ていて感じたことに、手と足の対比がある。特に、唯一役柄が固定されているミッフィーちゃん役の朝倉千恵子と最年少の石倉来輝は手を大きく振りながら、体を上下に揺らしている。対照的に、引きずる足が特徴的だったのが渡邊まな実だろう。彼女は無表情の顔のまま、長い左足を後ろにくねらせながら、一種のクールネスを放つ。コンテンポラリーダンサーでもある中間アヤカのじわりと少しずつ体を移動させる動きも冷静なフィーリングを持っている。激しさと抑制という二つのグルーヴが、リクリエーション版独特のリズムを作り上げている。今回、一切音楽が使われなかった代わりに、演者の動きが音楽的役割を果たしており、それは彼らの生まれながらの身体性から辿り着くそれぞれの「普通」が重なることで生じるグルーヴだ。

服装の話に戻れば、彼らのファッションは2003年的とも2017年とも言えない微妙なセンスを体現している。板橋優里のダボついたスポーツウェアの着こなしは2003年的だが、朝倉千恵子の履くHUNTERのレインブーツは当時はまだ流行していなかったはずだ。岡田利規は衣装に対して細かいこだわりを持っているわけではなく、2003年時においても現在においても浮かない雰囲気であれば構わないぐらいの考えだと思われる。ただ、その雰囲気の掴み方が完璧だ。リクリエーション版の半ば夢見がちな気怠いフィーリングが、全体的にダボついたオーバーサイズの組み合わせとマッチしており、ジャストサイズの渡邊まな実のセーターとムートンブーツもどこかダサくて外れていて、渋谷采郁のライダースにサロペットの組み合わせもぼんやりとした色合いに落ち着いている。2003年の「普通」と2017年の「普通」が重ねたが故に、結果的にどこでもない上演時だけの白昼夢の渋谷の若者像を作り上げる。冒頭に記した中間アヤカの服装が際立つのは、その格好一つがすでに異なる「普通」の重ねあわせであり、無時間性を体現しているからだ。

かつて「渋谷系」と括られることになったミュージシャン達は、宇多川町のレコードショップから、今・ここにはない海外や過去の音楽を掘り下げて、東京の「普通」の街に自分たちの「普通」を重ねることで、白昼夢的な時空間を作り上げた。「普通」の読み替えは、常に複数の時間や場所、複数の「普通」を一つの時空間に折り重ねることによって可能になる。たとえ今回はじめて『三月の5日間』を観た観客がいても、その体験は過去の上演なしを通して感受されるだろう。岡田利規が再演に意味を見出すのは、そこに異なる時間の折り重ね、異なる「普通」の折り重ねをみることができるからに他ならない。

(文字数:3538字)
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  • 伏見 瞬

    東京生まれ。10代からバンド活動・楽曲製作など音楽中心に生きてきたが、次第に言語芸術全般に興味があることに気づき、物書きの世界へ。
    好きな小説家はチェーホフ、映画作家はリヴェット、音楽家はスピッツとメルツバウ。演劇に興味を持つきっかけとなった人物は寺山修司と平田オリザ。