ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 × チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーションレビュー

「軽さ」の諸相~憑依するチェルフィッチュあるいはある若い俳優に寄せて

岡田利規は『三月の5日間』リクリエーションのパンフレットで次のように書く。

 当たり前のことですが観客の皆さんにはこれからはじまる上演をただそのまま経験していただけたらとおもいます。みなさんの感覚がこの上演からとらえたことすべて真に受けてもらって構わないです。自分の感覚がとらえたものすべて信用してもらって構わないです。

だから僕は僕がこの『三月の5日間』リクリエーションで受けたごく個人的な感想から始まる思考をもってこの演劇に対するレビューにしたいと思う。
ところで僕は2003年のイラク戦争を知らない。いや、知らないというより記憶にない。というのも僕は1997年生まれで、2003年の時は6歳だったのだから当然ニュースなど見てないし、そもそも物心が付いているかすら危ういぐらいだ。思うに2003年を6歳で迎えるということは案外に重要なことだと思う。つまり、それは子供である、という以前にまず社会に参入すらしていない。2003年の3月に僕ら1997年生は幼稚園、ないしは保育園を(入れていれば)卒園し、その1か月後に正規の教育システムである小学校に入学するのだから。
だから僕らにとって、2003年のイラク戦争を描く演劇は、トロイア戦争や第2次世界大戦を描く演劇と何ら変わりのない「歴史」なのだ。
そして僕と同じような立場でこの『三月の5日間』に関わった役者がいる。
1997年生まれの石倉来輝だ。僕と全く同じ年の生まれで、彼は『三月の5日間』を演じなければならない。彼もまた過去の遠い出来事を演じるように、ほとんどフラットな状態でこの戯曲を手に取り、演じていたに違いない。他の役者たちが1991年から1994年の間に生まれているのと比べても突出して若いというわけではないが、しかし僕はこの役者の演技に異質な何かを見た気がする。
それはある「軽さ」の諸相である。もちろんそれは不真面目な意味ではない。しかし彼の軽やかな動作や屈託のない(ように見える)笑顔は、他の俳優がむしろその内容を重々しく演じようとしているのに対して相対的に際立っていたと思う。もっと言えば、何かに憑かれたように軽やかだった気がする。それは確かにチェルフィッチュのそれだが、しかし見ようによっては野田秀樹の演劇における身体の軽やかさにも通ずるものを見ないでもない。
もちろんこの「軽さ」は僕が個人的に感じたに過ぎない。しかし、彼と同じ年齢として、僕はこの「軽さ」を自分の問題としても考えるに値するのではないか。
一体この「軽さ」はどこから来るのか。

1997年とは僕が生まれ、石倉来輝が生まれた年である(そしてチェルフィッチュが生まれた年でもある!)。僕らは6歳の時、イラク戦争を体験している、しかし体験していない。
去りゆく歴史をどう語るか。これはあまりにも深遠な問題過ぎて到底ここでは議論できないだろう。でも僕に分かるのはただ一つ、チェルフィッチュの演劇言語が「知らない過去」を語るのに、つまり「歴史」を語るのにあまりにも適したものであるということだ。それは例えばスタニスラフスキーシステムのように役柄に没入する言語ではなく、「~て言ってて、」とか「~てなったらしくて、」というような伝聞の形を取る。チェルフィッチュが突き詰めた移人称というシステムはこうした伝聞の言語によって可能になる。そこで真実は複層化され、「~みたいな」という曖昧な言語で出来事の周辺を語ることしか出来なくなる。
『三月の5日間』自体がイラク戦争そのものではなく、その周縁にいる人間たちの薄い関わりの中で曖昧にイラク戦争の存在を浮かび上がらせるだけだ。2003年当時の若者たちにとってそうした語りは、現実以上にリアルに感じられただろう。なぜならば彼らはそうした感性でイラク戦争に触れ、その遠い異国での戦争を曖昧な形で認識していただろうからだ。

しかしここに若干複雑な構造が浮かび上がる。
2003年の若者にとって『三月の5日間』はリアルタイムでそのリアリティが感じられただろうが、今回この演劇を演じた役者たちは先にも書いたように1991年~1997年というイラク戦争時には小学校か、まだ小学校にすら入学していない年齢の人間が演じるのだ。さらにこの役者たちは2つのタイプに分類出来得る。つまりある1つの出来事として小学校の教場や、テレビでイラク戦争の存在を薄く認識してはいた世代と、もはや記憶にすらない世代だ。そして既に書いたように僕たち1997年生まれの人間は、記憶にすらない世代なのだと思う。
うっすらと記憶にある出来事を演じることから既に記憶にすらない出来事を演じることへ。
この変化はあまりにも大きいと思う。
チェルフィッチュの語りの話法が「記憶になんとなくある、あったらしい出来事」を間接的に話していくのだとすれば、既に僕たち、そして未来の演者たちは「記憶にすらない、しかしあったらしい出来事」を演じたり、見ることになる。
しかしこの事態はよくよく考えてみれば、演劇にとってはあまりにも普通のことなのである。そもそも演劇は、演者たちが経験したことのない(=記憶にない)出来事を舞台上に浮かび上がらせるものなのだから、ある意味でチェルフィッチュの『三月の5日間』をイラク戦争が記憶にすらない世代が演じることは、2017年の若者が2003年の若者を演じるという意味で普通の演劇なのである。

僕たちが有利なのは『三月の5日間』を、前記したような事情によってフラットに眺めることが出来ることだ。経験と切り離された出来事は、幾分かそれを経験した人より客観的に演ずることが出来る。その点で桜井圭介のツイートは示唆的である。

 『三月の5日間』リクリエーション。総じて俳優自身と役の乖離・断絶が顕著。オリジナル版では、スピーカー(間接話者)役も含めて、俳優自身がいかにも「そういうがナシをしそうな/そういう人物ぽい」キャラで、それゆえ俳優の現前=表象の遂行という構造だった。
いっぽう、今回は、スピーカーに女性を配したこともそうだが、間接話法から直接話法に移行してもその俳優がその人物になる、ということが起こらない。そもそも2003年を知らない2017年の身体だし。

つまり岡田利規自身もまたこうした2003年と2017年の断絶を意識するような構造をリクリエーション版に仕込んだのである。そして2004年に初演されたバージョンではそこにある身体がほんとうに「2003年っぽい」身体であり、舞台上にはその時代を表すような身体が『三月の5日間』を通じて現前させられる。そして今回のリクリエーション版ではそこで2003年の身体を演じようとする2017年の身体がある。
しかしその岡田の試みはある意味で、半分成功し、半分失敗したと言えるのではないか。つまり本当に2003年という時間に対してフラットに演じるためには子供、であるというよりも、それがほぼ記憶にない、ということが必要だろう。だからこのリクリエーション版では唯一石倉来輝がもっともその演劇に近づいていたのではないか。

では、その彼から出される「軽さ」は一体なんだろうか。
いや、実のところそれは分からない。それは彼が持つ生来の身体性から導き出されたかもしれないし、岡田利規が特別に用意したある意味を担った結果なのかもしれない。しかしながらこうして彼がある「軽さ」を持って舞台上にその身体を表すとき、既に岡田利規がこの『三月の5日間』リクリエーションで行おうとしたある計画が浮かび上がる。
それはチェルフィッチュという演劇の「型」を継承することではないか。既にして『三月の5日間』においてそれが2003年において、そこにその当時ならではのリアルな身体を現前させる役割を終え(事実、内容をそのままに舞台や舞台となる時期を変更するという可能性もあったにもかかわらず、だ)、2003年の設定そのままに2017年にそれを再演するということは、チェルフィッチュが考え出したある身体や語りの型を継承するということに等しいのではないか。
もちろんその型とはあの独特の身体の身ぶりであり、語り方であり、語りの形式である。
僕たち、イラク戦争が記憶にもない世代は、チェルフィッチュの『三月の5日間』を、観阿弥や世阿弥が大成した能のように、もしくは歌舞伎のように、一つの演劇形式として演じることが出来る。もちろんその内容は大きく違うが、しかし全くフラットな状態でそれを1つの「型」として身体に憑依させるという、そうした戯曲の在り方をチェルフィッチュは活動20周年目にして打ち出したのではないか。
なるほど、石倉もチェルフィッチュという型をその身体に憑依させたのではないか。そこで表象される身体は『三月の5日間』が初演の時に、その当時の若者のリアルな身体を現出させたのとは異なり、その型を憑依させる身体である。
何かに憑かれる、確かに石倉の演技はそのように何かに憑かれたような演技かもしれない。それは飛び跳ねたり、狂気の沙汰に陥ったりするわけではなく、あくまでもチェルフィッチュの身体だと思う。しかしあの「軽さ」を作る、笑顔や軽やかな身体は、そこに時代をも超える可能性を持つチェルフィッチュという「型」が乗り移ったのではないか。
そしてその身体は「イラク戦争を知らない世代」、ではなく、「イラク戦争など記憶にない世代」において実現されるのではないか。
『三月の5日間』は1つの型としての演劇様式を生み出そうとしている。今後、どのような人間がそれを演じ、そしてその型に憑依されるのだろうか。
僕はそんなことを思った。

(文字数:3816字)
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  • 谷頭 和希

    早稲田大学文化構想学部表象・メディア論系在籍。専門は、都市・建築とその表象について。
    専門分野にとどまらず、文学や演劇、映画からゲームまで幅広いジャンルを都市論・建築論の観点から捉え直し、新たな視点を発見する。