ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 × チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーションレビュー

想像力の彼岸

 2017/12/1(金)、神奈川芸術劇場でチェルフィッチュ「『三月の5日間』リクリエーション」を観た。現代日本演劇における一つのメルクマールとして語られ、過去に100回以上再演されている『三月の5日間』であるが、今回はリクリエーションと銘打たれ、新しい作品として上演が試みられた。
 今回のリクリエーション版がこれまでの『三月の5日間』と大きく異なる点は、チェルフィッチュの演劇に多く出演してきた山縣太一や青柳いづみといった俳優陣ではなく、新たにオーディションで、しかも24歳以下という制限を設けたうえで選ばれた俳優たちが起用されたことだ。岡田がそのような試みに出た直接的なきっかけは、一昨年(2015)に北京で行われていた『三月の5日間』のリーディング公演を観たことだと述べている(*1)。 そこで岡田は、中国の俳優たちを通して「未来」を感じたと言う。ここで言う「未来」とは、かつて高度経済成長期の東京にもあった、未来への明るい展望を持って進んでいくエネルギーのようなものだろう。北京で感じた「未来」と日本での若い俳優の起用。この二つが結びついたのは、近年岡田が「想像力」と言った言葉をよく使うことと無関係ではないだろう。岡田は2011年の東日本大震災以降、「想像力」や「フィクション」という言葉をよく使う。そこで岡田が重要視しているのは、観客の中でどのような演劇の受容体感が立ち上がるかだ。その受容は観客ごとに異なっていて良い、というのが近年の岡田のスタンスである。北京で観客としてこれまでと違う『三月の5日間』を岡田は受容した。そして東京でも、若い世代と一緒にクリエイションを行うことで、今までとは違う『三月の5日間』が立ち現れるのではないか。そのような観客としての視点と受容が、自分より二周りほど若い俳優たちを起用した背景にあったのだろう。

 前置きが長くなったが、これから実際の上演について述べていく。まずおおまかな印象として感じたのは、オリジナル版が持っていた発話や身振りの過剰さが、今回のリクリエーション版ではだいぶ抑えられていたということだ。
 『三月の5日間』を説明するときによく用いられるのが、だらだらした言葉や身体という言葉である。たびたび起こる言い淀みや意味もなく動く手足は、さすがに現実では起こりえないのではと思わせるほど過剰なものだった。意味への回収からすり抜けるようなその仕掛けは、発話される言葉や目の前の俳優の肉体に、即物的な印象を強く感じさせる。
それに比べると、今回の上演は比較的スマートな印象があり、言葉よりもナラティブ(物語)が、俳優の肉体よりも登場人物の身体が前景化していた。
先日発売された『三月の5日間』[リクエイテッド版](白水社)のあとがきで、リクリエーション版に向けた稽古を行っている現在と、2004年当時の稽古の様子を比較して、岡田は以下のように述べている。

その頃の僕の関心はリアルを増幅させて独自の表現に届くことにあったと言える。今はリアルと対置されそれと拮抗しうる〈想像〉をつくることに僕の関心はある。このふたつは全然違う。 (*2)

 身振りと発話の多さ。それはすなわち観客に届けられる情報の過多を意味する。その特徴が抑制された理由の一つは、観客が想像力をはたらかせられる余白を作るためではないだろうか。この演出もまた、たびたび出てくる「想像力」と密接に繋がっている。
 しかし、そのようなリクリエーション版のなかでも二カ所ほど、「過剰さ」という特徴を感じさせる部分があった。その場面が印象に残っているので、その部分について踏み込んで書いてみようと思う。
 一つ目の場面は第二場、ミッフィーちゃん(朝倉千恵子)とアズマくん(石倉来輝)が映画館で出会った場面でのやり取りだ。二人のやり取りは、スポーツを見ているのに近いような身振りと声の応酬だったが、そのスピード感が直前の場面と好対照をなしていた。その前の場面はミノベくん(板橋優里)とユッキー(渋谷采郁)が初めて出会ったところであり、ライブハウスの中で行われた会話は淡々としたものであった。そのライブハウスに来ていたのはカナダのマイナーなバンドで、ボーカルが英語で話すスピーチをミノベくんはほとんど聞きとれない。そのため、アメリカ留学の経験があるユッキーが、どんな内容を話していたのかを教えてくれる。

「そうイラクの話、」
「あやっぱりそうなんだ、」
「なんて言ってたかって言うと、」
「うん、」
「日本に来日して今ステイしてるホテルが渋谷なんだって、」
「うん、」
…… (*3)

 このような会話が行われる場面だが、上演において二人の間には不穏な雰囲気が漂っている。まず、ミノベくん(板橋)のあいづちは異常なほど早い。ユッキー(渋谷)のセリフにかぶってしまうのではないかと思うほど食い気味になされるあいづちは、「あなたの話なんて聞くつもりはない」という強い意思表示のように感じられる。実際にこんなあいづちをされたら困惑すると思うのだが、ユッキーは動じずに淡々と語り続ける。ミノベくんの反応のあと、1,2秒ほど相手を無表情で見つめてから再び淡々と語りだすその様子は、どこか不気味であった。
 それに比べて、朝倉演じるミッフィーちゃんの感情表現、そして身振りはわかりやすく、かつ過剰だ。その場面は、アズマくんが映画館に一人で訪れたところから始まる。アズマくんはガールフレンドと一緒に映画を見る予定で、前売り券を二枚もって映画館に来ていた。しかし、ガールフレンドは仕事で急に来られなくなってしまったため、アズマくんは持て余したチケットを他のお客さんに売ろうとしていた。そこにミッフィーちゃんがやってくる。二人は映画を見た後に会話をする。そこでアズマくんに一目惚れ(?)したミッフィーちゃんは彼にアタックをかけるものの、ことごとくから回ってしまう。
 その後、ミッフィーちゃんのモノローグパートに入る。先の場面に続いて、ミッフィーちゃんは舞台上を動き回りながら、一人で語り続ける。
 その過剰さはなにゆえ起きているのだろうか。そこにはおそらく、岡田がインタビューで述べていた、若い世代の俳優たちが持っている、見られることに対する慣れのようなものが関係している。見られることに対する慣れは、常に誰かのまなざしに晒されているという意識をうむ。ミッフィーちゃんがアズマくんの前で見せてしまった振る舞いはその場において完結するのではない。過去の振る舞いは消えることなく、ミッフィーちゃん自身の意識においてまなざされ続ける。彼女の溢れ出す言葉と身振りは、その過去に対する上書きだ。消せない過去であるならば、その過去がかすむまで行為を上書きするのである。
 もう一つの過剰さを感じた場面が第九場、デモ行進に参加していたイシハラくん(石倉)とヤスイくん(米川幸リオン)が、板橋によって怒られる場面だ。この場面および先ほど説明したミッフィーちゃんとミノベくんの場面を除いて、上演中に登場人物の間で交わされるコミュニケーションはどこか淡々としており、彼ら彼女らが抱いている感情は掴みきれない。第九場の皮切りとなる板橋の語りも、最初はどこかおちゃらけた部分もあるようで、本心が掴みづらい。しかしその語りは徐々に、デモに参加していたイシハラ・ヤスイ両者への明確な怒りをはらんでいく。先ほどのミッフィーちゃんの語りと比べて、この場面では俳優の動きは少ないが、板橋の演技には、ミッフィーちゃんにも似た強い感情が見てとれる。ミッフィーちゃんの振る舞いが、大きな動きを伴う〈動的〉な感情の表出だとするならば、板橋の振る舞いは、ミッフィーちゃんと対をなす〈静的〉な感情の表出である。
 思うに、『三月の5日間』は俳優に多くの制約を強いる作品だ。セリフや場面と結びつかない振り付け、意味のない音節などが多いゆえに覚えにくいであろうセリフ。今回はそれに加えて、チェルフィッチュ20周年という文脈の中で『三月の5日間』を演じるということ。その中で、朝倉と板橋の演技はひときわ自由であり、それゆえに強く惹きつけられたように思う。それは、観客の想像力という、眼前で起きる上演の多様性を捉える一方でその眼前の出来事を絶えず意味の増殖および希薄化へと回収してしまう強力な力からすらも飛び出るような、そんな自由だったのはではないだろうか。

(文字数:3380字)
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(*1)チェルフィッチュ岡田利規が語る、劇団20年間の歩みと現在の心境 – インタビュー : CINRA.NET https://www.cinra.net/interview/201712-chelfitsch
(*2)岡田利規、2017、三月の5日間[リクエイテッド版](白水社)、p.175
(*3)岡田利規、2017、三月の5日間[リクエイテッド版](白水社)、p.9-10

  • 寺門 信

    1994年生れ。都内で院生をしています。 ジャズを演奏したりしていました。 Twitter : @jimonshin