ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 × チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーションレビュー

2003年が描き出す2017年という今

 2017年12月の現在、渋谷駅のハチ公口には多くの外国人がやってきて、109を背にして交差点からポーズを取って記念写真を撮ったりしています。通り過ぎていく人々の口からは聞き慣れない言葉が聞こえてくることも珍しくありません。渋谷はもはや観光地なのでしょう。でもハチ公口集まるのは外国人だけではありません。ある時は街宣車がやってきて某国は許すまじと勇ましい言葉を発したりしています。またある時は横断幕を広げて戦争反対と平和を訴えたりもしています。渋谷は主張をする場所でもあるのです。それらの光景はもはや珍しいものではありません。すでに日常になっているように思います。政府は観光を重要な産業と位置付けました。そして隣国に対しては対話は不可能だと強硬的な対応を示しています。外国という存在がより身近で検討しなければならないものとなっていて、その端的な例が渋谷に現れているといって良いんじゃないかなぁと。2017年12月の渋谷にはこんな印象を持っています。そしてKAATで『三月の5日間』のリクリエーション版を観た帰り道に思ったのはこんなことでした。
 「2003年の渋谷はどんなだったっけ?」

 チェルフィッチュの『三月の5日間』は、2005年に岸田戯曲賞を受賞した作品です。そして同作品を小説化したものは2008年に大江健三郎賞も受賞しています。再演を何度も繰り返しており、現代演劇の分岐点とも称される代表作です。今回、そのような作品をリクリエーションし、2017年の12月1日から20日までKAATで上演。その後は世界を回ることになっています。でも私はこの『三月の5日間』を観たことも、戯曲や小説も読んだことがありません。すごい作品だという情報だけが頭に入っており、どんな名作なのだろうと期待して開演をワクワクしながら待っていたのです。そして始まった上演を観てびっくりしました。想像と全く違う。なんて不思議な作品なのだろうと思ったのです。

 語られている物語はそんなに難しいものではありません。渋谷のラブホテル内で繰り広げられるミノベくんとユッキーのSEXだけの5日間を軸に、レイトショーで出会ったアズマくんとミッフィーちゃん、イラク戦争反対のデモに参加したイシハラくんとヤスイくんのことが渋谷の街を中心に語られています。特徴的なのはその語り方。

 それじゃ「三月の5日間」ってのをはじめようと思うんですけど、5日間のまずその第一日目ですけど、あ、これは二〇〇三年の三月の話なんですけど、朝起きたら、あ、これミノベくんって人の話なんですけど、…

 このようにミノベくんが自分のことをしゃべっているのではなく、第三者がミノベくんのことをしゃべっているような感じ。さらにミノベくんのことを思い出した順にしゃべっているようで時系列もバラバラ。ミノベくんやユッキーを演じる時も「演じます」と宣言してから行います。そのうえ役者たちは身振り手振りを激しく行います。これ、話がノってきた時に、あたかもその人になったようにオーバーアクションでしゃべってしまうのにとても似ているなぁと思うんです。「演技」というよりは「話芸」といえば良いかな。つまり舞台上にはミノベくんもユッキーたちもいなくて、実際にいるのはミノベくんやユッキーたちのことを面白おかしく語る人たち。本当か嘘かなんてどうでも良く、若者の街である渋谷で生まれた都市伝説かもしれないミノベくんとユッキーの物語を楽しんでいる若者たちなのです。そのころの渋谷にはそういうことが起きてもおかしくないという雰囲気はあったと思うんですよ。めったに渋谷に行かなかった私ですら、渋谷には忘れられないことがあるからです。そのころの私は音楽ゲームにはまっていて、そのゲームの音楽を作っている人が渋谷のClub Asiaでオールナイトイベントをやるというので行ってみたんですよ。普段行くのは秋葉原という人間だったので、色んな意味でカルチャーショック。出会った男女がその場でうぇーいと酒を酌み交わしていたり、急にキスをしだしたりしていたんです。踊りつつもそれを遠巻きに面白いなぁと楽しんでいたのです。明け方になってそろそろ始発が出るから帰ろうかなぁと駅に向かって道玄坂を歩いていたら、街角にアジア系の娼婦が至るところに立っていました。怖いなぁと思いながら歩いていると、そのうちの1人が1万円でどうですかぁとついてくるんですね。そして私が走り出すとその人も走ってついてくる。超怖えぇぇぇぇとコンビニに駆け込んだのだけど、その人は私が出てくるのを入口で待っているんですよ。ええ、本当に怖かったです。でも、空が明るくなって始発が動き出す頃になると、その人も他の娼婦たちも闇に溶けるように消えていきました。めったに渋谷に行かなかった私ですらこのような事態に遭遇するのだから、ミノベくんとユッキーのようにノリで即マンしちゃうような状況はありふれたものだったのではないでしょうか。なので、2003年頃の渋谷に集まる若者はどこかふわふわしていて不真面目だったような気がするんです。そのころはオンライン証券が出始め、株をやる人が増えてきた頃。ホリエモンが世の中を騒がしている頃。世の中もふわふわしていたような気がします。なので『三月の5日間』で描かれているものはとてもリアリティを感じて、それを語っている人物にもリアリティを感じる。さらにそのような若者が集う渋谷にリアリティを感じる。2003年の若者の街である渋谷が見事に描かれている作品なんだなと思いました。

 でもね、でも、今作の上演には戯曲を読んで感じなかった違和感を感じるんですよね。2017年に20代前半の若者が上演しているからか、2003年の若者の不真面目さを生真面目に演じているような居心地の悪さみたいなものを感じるんですよね。集められた役者は2017年に20代前半だというのだから、2003年では10歳ぐらいでしょう。だから2003年の20代の若者がどんなものだったのかを知るよしもないのです。そのため台詞のリアリティと役者のリアルが分離しているようで「伝聞」という印象を強く感じます。オリジナル作品が求めたであろう2003年の若者たちのリアルは2017年の若者たちの中にはもはや存在しません。2003年のリアルはもはやフィクションの中に描くことでしか成立しないのです。その2003年のリアルはとてもよく描かれているのだけどそのリアルさは上演では伝わってこないのです。

 では、なぜ『三月の5日間』をわざわざ上演するのでしょう。描きこまれたリアルは誤ったりこぼれ落ちたりして違うものになってしまうのにです。でも実はこの誤ったりこぼれ落ちたりというのが重要なのかもしれません。いわゆる誤配があるからこそ、私は違和感を感じるのです。そしてその違和感があるからこそ、私がどう思っているのかというのも感じるのです。岡田さんの想い、戯曲を語っている役者の想い、その上演を観ている観客の想いがうまく交わらない。それは戯曲のリアルさは渋谷という街にしかなく、上演に登場するミノベくんやユッキーは言葉の上でしか存在していないので、それぞれが想像している像が違うのです。そしてミノベくんやユッキーがどういう人物なのかという情報があまりにもないので、その像はそれまでの人生が反映されたものとなります。そうすると、その像は自分自身を映し出す鏡となります。そうすることで自分というリアルに触れるのです。『三月の5日間』の上演とは色んな人との対話するためのものではないか。そんなことも思ってしまいます。

 ハチ公口からこまばアゴラ劇場まで歩いていくと、色んなものが目に入ります。センター街の看板は既になく、今ではバスケットボールストリートに。ブックファーストもヴィレッジヴァンガードになりました。Bunkamuraまで文化村通りを登っていくと、昔からあるくじら屋はまだあるのだけど、ヤマダ電機や外資系のファストファッションのお店が目につきます。そしてドン・キホーテも移転し、もともとあったところはシャッターが降ろされて何語か分からない文字で落書きもされています。ヤマンバの姿はすでになく、ヒジャブを巻いているアジア系の女性を多く見かけるようになりました。
 「2003年は遠いんだなぁ」
 渋谷駅周辺は再開発が進み、宮益坂口の前には2012年にヒカリエも建ちました。そして2008年に東京メトロ副都心線が開通し、今では東急東横線と接続して横浜の元町中華街まで繋がりました。そのため乗降者数も減ってしまいました。渋谷の街に来る人は若者ではなく、海外の観光客です。2017年の渋谷は「若者の街」という特別なものではなく、東京にある一つの地域となってしまったように思います。渋谷らしさが残るのは109とハチ公口前のスクランブル交差点であり、それも歴史的遺物としての観光施設の側面が強いように思うのです。私が『三月の5日間』を観て一番感じたのは、この14年という時間の重さでした。そしてそれは2003年というものがあるからこそ2017年の今と接続し、2017年の今というリアルを感じるのです。

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  • なかむらなおき

    ワンダーランドの劇評セミナー、シアターアーツの劇評家養成講座を経て、批評家養成ギブス、批評再生塾に通って
    劇評とはなにかを学んできました。それでもよく分かりません。
    Twitter:@nao3_desuyo