『三月の5日間』を読み解く
これは、ユートピアを求める物語だ。
『三月の5日間』(2004年〜、岡田利規による戯曲)は、伝聞から始まる。誰かから聞いた話を観客に向かって説明する、という行為を役者たちが演じる芝居で、彼らは、話題に上がる登場人物たちが舞台上に存在しないよう振る舞う。物語は次のように推移する。まずライブへ出かけた男女数名と、そのうち二人が五日間ラブホテルで性行為に耽ったという内容が語られる。次にイラク戦争が始まったというニュースが挟まれ、戦争と平和の対比が浮かび上がる。後半で彼らは「ラブホテル滞在中に戦争が終わっていたらいい」と夢想するのだが、注目すべきは彼らの、状況を変えうる創造力だ。どういうことだろうか。
「日常」を離れてライブの祝祭的空間に移動した彼らは、ライブが終わってもそこに帰ろうとしない。手始めに「つがいになってラブホテルに移動する」という手段を逸した登場人物が、火星や木星に行きたいと願望をあらわにして思索に耽る。実現困難な未来を頭の中で欲望する様子は、この段階でただの現実逃避かどうか判然としない。同時に、火星や木星が名指されることで相対的に、現在地は地球であると強調されるが、これはのちの伏線となっている。
続いて、ラブホテルへ移動したカップルに話題がスライドする。二人は、ライブ/非日常から自宅/日常へ真っ直ぐに帰らず、ラブホテルというもう一つの非日常を求めたのだった。目論見通り日常を回避し、非日常の延長に成功した彼らは更に、もう一段階、別の移動にも成功する。それは、奇しくもホテル滞在中に戦争が始まったということだ。彼ら自身で立ち位置を移動するのではなく、帰るべき日常の世界の側が、平和のイメージから戦争状態へ移動したのだ。つまり、非日常の中にいる彼らと、元いた日常の間の距離が、さらに遠ざけられた。
かくして己の現在地を最大限に「日常」から遠ざけ続ける二人だが、ホテル滞在という企みは数日で幕を閉じる。なぜなら、彼らがいったんホテルを出てカレーとラッシーを飲食した後、ホテルへ「帰る」という体験をしたからだ。ここで、滞在が長引けば、ホテル生活は自宅にいるのと大差なくなってしまうと学習した。またこの段階で、彼らはホテル滞在の殆どを性行為にあて、人間らしからぬ下半身だけの生物のように振舞っているが、まだそれが過ちだと気づいていない。それは彼らの、自分は人間だ、という当たり前の立場から離れようとする意識によるが、物語の最終盤でホテルを出た登場人物は、犬と、排泄するホームレスを見紛うのだ。よって、そもそも人間と獣の境界線が曖昧だと自覚する。現状からの移動を求め、普段とは大きく異なる行為を試みても、動物にとって最も普遍的な営みを繰り返しただけだった、と。
困難を知った彼女はすぐさま自己嫌悪に襲われ、道端で嘔吐する。吐瀉で幕を閉じるというスタイルは、サルトルによる『嘔吐』(1938年発表の小説)へのオマージュとして機能しているが、ここでは加えて、身体の内側と外側を移動し続ける反復としての効果が現れている。振り返れば確かに、劇中に登場したキーワードたちは、性交のほか、飲食されるカレーやラッシー、排泄物、吐瀉物など、どれも身体の内と外の移動を暗示してきた。できるだけ遠くに飛び出したはずでも、いつの間にか元の位置に戻って同じことを繰り返し、内か外か、ヒトか獣かの間を往復していたと彼らは気づいたのだ。
世界の日常と非日常、身体の内側と外側といった対極を反復し、戸惑いながら移動する彼らの活動は、話題の内部のみならず、演じる役者の身体動作にもあらわれる。上演中のほとんどの時間、役者たちは重心を左右、前後に往復させ続けるが、終盤を迎えると役者たちはその動きを止めて、床に敷かれた白線を頭の高さまでつまみ上げるのだ。言い換えればそれは、移動したつもりでも、元の居場所が地球という球体の表面なので、重力というルールに従いながら同一の大地の表面を循環していた、と気づくことだ。それは今の人間が、獣につけるくびきを逃れた自由な存在であると感じても、実は重力というくびきから逃れられていない獣であると暴いている。同時に彼らは、真に自由になるために重力を振り切って、地面から天空への飛翔が必要だと知ることができる。前述の「地球」という伏線を回収した彼らの進路は、こうして地上から宇宙空間へ浮かび上がった。もちろん宙に浮く白線は二次元の移動の限界と、三次元、つまり地面から空への移動を象徴する。
では、日常と非日常、戦争と平和、上半身と下半身、内側と外側、前後左右、そして天地といった対極を何度も往復/循環した彼らは、果たして何を求めていたのだろうか? それは「ここではないどこか」へ向かうユートピア幻想だ。本稿で明らかにしたように、彼らは、それまでの自分の位置が日常であれば非日常へ移ろうとし、上半身の生物だという前提から離れて下半身ばかりの行動を求めるという具合に、常に、現在地でないどこかに向かって移動してきた。留意すべきは、具体的な目的地があるというより、ひとまず今迄と異なるどこかを目指すという点だ。そもそもこれは「物語の登場人物から聞いた話」を観客に話す、という伝聞の体でスタートする舞台の上の出来事だが、役者の姿は物語の進行と同期して、徐々に登場人物とイコールで繋がっていく。物語の中の彼らは「今の自分でない誰か」に擬態していたのだった。ここでも、具体的な他人というより「とりあえず自分ではない誰か」が目指されている。擬態のカラクリが解除されると、演じている役者たちが全員、地球上から「大きな物語」が消滅した1991年のソ連崩壊以降の生まれだ、という情報が重要になる。彼らが、ソ連崩壊という断絶の次の時代を担うべくして、その後に誕生していたと教えるのは、観客の手元に配布された上演パンフレットだ。この道具を通じることで、作品の焦点は、虚構の世界から「命がけの飛躍」をし、現実世界へ到達する。そう、2017年12月にリクリエーションされる作品のため、オーディションで選ばれた役者たちは、その生年をも謎を解くヒントに提供した。
「ここではないどこか」を求めてあちこち進んでも元の場所に戻ってしまう二十代の若者たちの姿は一見「クラインの壺」を流れる循環運動のようだ。しかしこれは、元の脚本から大幅に書き換えられた上、2011年の震災という断絶を踏まえて、ポストモダンを視野に入れながら上演された。また、文献を紐解けば、歴史の中の人類はいつも必ず、大きな断絶の後にユートピアを求めてきた。そして震災直後の混乱が落ち着きつつある2017年の今、現状を脱し次への移動を求める思想、ユートピア幻想が台頭する頃合いだ。時代の法則を知り、理想的な次への橋渡しとなる虚構を欲するという、人間の性質を汲みとったのがこの作品である。こうして『三月の5日間』リクリエーションは、ともすると幼い現実逃避のようであっても、最終的には未来に繋がる最新版のユートピア幻想として、今ここに現前する。
成長しながら未来へ向かう若者たちが、理想の未来を目指しても、何度も失敗して挫折を味わうかもしれない。けれどこの舞台の登場人物たちが、失敗しながら学習を繰り返し、ついには未知の宇宙空間に意識を向けたように、もしくは、虚構の物語の内部からパンフレットを潜り抜けて現実世界に飛び出したように、人は思いもよらない飛躍を果たすことができる。その証拠に、物語の内部が、いま君が呼吸している現実世界に進化してみせたではないか。
全ての若者たちを、きっとある理想の未来へ導かんと願う、大人からのイマージュ。悲惨な震災から理想の世界へ向かう若者たちの進路に、これが、そっと添えられた。
(文字数:3333字)
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