『三月の5日間』リクリエーションにみる「ヘソ」の存在
2004年初演時の『三月の5日間』(以下オリジナル版)にはなく、2017年『三月の5日間』リクリエーション(以下リクリエーション版)にあるもの--それを一言で表すならば、「ヘソ」の存在である。
俳優の中間アヤカが舞台上でチラチラと見せる「ヘソ」は美しかった。観劇中も、帰りの電車の中でも、家に帰ってからもずっと、なぜか「ヘソ」の映像が頭から離れなかった。中間アヤカが、そして岡田利規が私たちに見せたものが、背中でもなく、脚でもなく、「ヘソ」だった。このことの意味は、存外大きいように思う。
「ヘソ」は、胎児期に母親と物理的な意味でつながっていたことを示す、私たちの肉体に刻まれた唯一の痕跡である。「ヘソ」を見ると私たちは、かつて自分の身体が確かに他の身体とつながっていたのだということ、そして自分の身体に何かが他の身体から流れ込んできていたのだということを思い出す。そうしてふたたび舞台上の「ヘソ」を見れば、一つの疑問が浮かんでくる。この「ヘソ」は一体どことつながり、ここには何が流れ込んできているのか。
リクリエーション版には「ヘソ」が存在する。この感覚は、俳優の「ヘソ」によって視覚的にもたらされるだけでない。物語の構造によってももたらされる。役者が四人舞台上に登場する第七場--この場面は、物語の「ヘソ」となっている。どういうことか。
第七場で演じられるのは、三月の5日間を渋谷のラブホテルで一緒に過ごしたユッキーとミノベくんの会話の内容である。オリジナル版では、他の場面と同様、その語り手が次々とメタ化されていた。二人の会話の再現は、その会話の内容をミノベくんから聞いたアズマくんの伝聞となり、さらにアズマくんがそういう話を聞いたというナレーターによる伝聞となる。一方リクリエーション版では、第七場のみ語り手がメタ化されない。その他の場面では、役者が「ユッキーは〜」「ミノベくんは〜」と伝聞形式で語ったり、「今からデモの様子をやります」と宣言をしてから、その場面を再現する体で演技をしたりするのだが、第七場では、役者は「私たちは〜」「俺さ〜」と一人称の語りをつづける。ユッキーはユッキーとして、ミノベくんはミノベくんとして、アズマくんはアズマくんとして語り、会話が紡がれ、あるいは再現されていく。
第七場を除き作品全体を通して語り手はメタ化されているので、基本的に物語と観客の距離は遠い。語り手のメタ化は、物語と役者の距離を離し、役者と観客の距離を離すからだ。そのような中、一場面だけ一人称の語りが入るとどうなるか。物語と観客の距離が一気に近くなる。しかもそこで語られる内容には、他の場面ですでに語られたものも多く含まれている。すると、一人称という語りの吸引力のもとに、他の場面での語りが第七場へ次々と流れ込んでくる。つまり、第七場が作品の「ヘソ」となるのだ。
「ヘソ」に流れ込んでくるのはそれだけではない。第七場では、イラク戦争の話が語られ、阪神淡路大震災の話が語られ、また、ユッキーとミノベくんの二人が今後二度と会うことはないだろう、会わないといいねという会話がなされ、「あとさ、年も取るし、だから会ってもわかんなくなるから大丈夫だよ」という台詞が入る(この台詞はオリジナル版にはない)。つまり、過去や未来の現実の時間もここには流れ込んでくる。過去や未来の時間軸が交わる感覚というのは、『現在地』(2012年初演)や『地面と床』(2013年初演)などの作品にも通じるものである。そうしてみると、このリクリエーション版が、チェルフィッチュ作品全体の「ヘソ」として位置付けられるようにも思われるのだ。
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