ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 × チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーションレビュー

『三月の5日間』リクリエーションの緊張と緩和の身体についてのレビュー

 遠くで起きていることと、近くで起きていることを、たとえそれが弱い意味付けであっても、結び付けて考えてみる。そしてそれを結び付ける時の、嘘を、違和感を、糾弾するのでもなく、擁護するのでもなく、その嘘と違和感を感じてしまうメカニズムを考察する。『三月の5日間』リクリエーションの初日を観劇しながら、私はそう思った。2003年3月の日本と戦争のあったイラクとの距離。2003年3月のイラクと、2017年12月の日本の被ミサイル着弾可能性。2003年3月の日本と、2017年12月の日本の間にある過ぎ去った時間。そういったことを、こうして文字として書いた時にも、そこにはどこか嘘や違和感が残る。それは、日本が今後ある種の戦争状態に陥った場合に、どこかの国ではそれを記念にして、セックスをする若者もいるかもしれないという感覚と、同時にそれはその国で『三月の5日間』が上演される可能性も内包しているという予感がほぼ同時に去来するからかもしれない。この『三月の5日間』という戯曲は局所的な時事的要素を持っているにも関わらず、いやむしろだからこそ、歴史的な意味においても潜在的に非常に遠く、長い時間を射程距離としている作品でもある。そうした作品を、現代の日本の若い俳優で上演することによって、どのような化学変化が起きたのか。
第一場では、板橋優里がパーカーの袖先まで手を隠しながら、ニヤニヤ、ヘラヘラとしながら、ミノベがナンパをするところについての話を始める。その緩い服装としゃべり方で観客に向かって彼女は発話し、少しすると、声が若干震えたように聞こえたが、そのまま石倉来輝と話を始める。石倉は舞台中央に立ちながら、舞台の左右の袖をしきりに気にするように、首をふり、動きはどこかゾンビのようにも見えるカクカクとしたものだ。腕はだらーんとしており、脱力しているようにも見えるが、周りの気にしかたを見てもどこか緊張している。余裕のようでいて、どこか不安を垣間見せる。こうした、緊張と緩和のどちらともいえない微妙な身体が今回の『三月の5日間』リクリエーションでは非常に多かったような気がする。また、第五場で、石倉来輝と、米川幸リオンの二人がデモの様子について演じ、観客に向けて、デモの様子について説明をするのだが、その動きは観客に向かって歩いたり、時として、客席の方を向きながら、後ろ歩きをしたりする。客席に向かって話しかけているので、客席に向かって歩いてくる時には、違和感はないのだが、後ろ歩きで客席から離れつつも、客席に向かって話しかける時には、不思議な違和感が生じ、その距離が離れていくベクトルと、でも、客席に向かって説明しなくてはいけないという演技のベクトルの緊張的な対立が見られた。しかし、ここでもおそらく米川幸リオンの方だった思うが、相槌のような「あー」という気の抜けた震え声の返事がその緊張に水を差す形で、その場の空気を緩和していた。
しかし、第七場での、石倉来輝、渋谷采郁、米川幸リオン、中間アヤカの四人による絡みの場面は緊張関係の場面だった。リオンや、石倉の男性陣は時折、うんこ座りをしたりするのだが、それに対して渋谷采郁、中間アヤカの横になりながらの動き、そして視線が素晴らしく張りつめていた。特に中間アヤカが、米川幸リオンをじっと見つめ、それにリオンがビビったようなリアクションがあるところなど、動きやセリフだけではなく、視線による効果もあった場面だった。
第九場では、デモ役の石倉とリオンが、板橋に怒られるのだが、ここでの板橋の怒りっぷりというか叱りっぷり、そして男性二人の怒られっぷり(「はい」の返事が絶妙にずれる)は非常におもしろく、笑いを誘う場面であり、それでいて、戯曲全体の内容に対して最も外の視点からの場面でもあることからも、良い意味で最も空気が弛緩している場面だった。
そして第十場では渡邊まな実が、セリフを発話しながら、第四場登場時にも着ていたインディアン調の服の上から、赤いパーカーを着て、カバンを持つ。まるで、舞台上で配役用の衣装を着たかのように。まるでその衣装をきた瞬間にユッキーが舞台上に現れたかのように。今回の『三月の5日間』リクリエーションではこうした俳優の登場、退場を、瞬間的に行おうとしている意図が垣間見える。それは第二場における通称ミッフィーちゃん役の朝倉千恵子が長くつにも関わらず、ダッシュで登場する場面や、すべての俳優が退場する際に、サッと後ろを向き、客先に背中を向け、その瞬間に誰でもない存在に変わり、早歩きで舞台奥袖に退場することからも伺える。もちろん退場時の脱力感は、2006年のスパーデラックスで上演された時(筆者はDVDにて鑑賞)でも行われていたが、それが後ろを向くというより強調された形で本作では行われている。こうした俳優の登場、退場に対する岡田利規の実験性は、『部屋に流れる時間の旅』(2016年)の開演直後での、登場人物のありさを演じる女優(安藤真理)によって、マイクを通して、観客に「目を閉じてください」と伝え、「目を開けてください」と言われると、ありさは舞台上からいなくなり、別の二人の登場人物がいるといった演出と通底するものがあり、今後もこうした実験が行われていくことだろう。
2006年のスパーデラックスで上演された時とは明らかに違った形で、こうした緊張と緩和が混在した『三月の5日間』リクリエーション版は、現代の日本と若者を反映したものとして見られてしまうことだと思う。(冒頭で私もそうした読み方に対する欲望を抑えきれなかった)そこにはもちろん一定の事実は含まれているだろうが、違和感も確かにある。それは私が冒頭に書いたように、この戯曲の持つ射程の広さによるものである。しかし、そうしたことも含め、こうして2017年の12月に『三月の5日間』という戯曲に対して思考を巡らすことは、今この時を、未来を、そして過去を想像するきっかけとなることは間違いないことであり、そうしたことを日本の若い俳優を通して行えたということは私にとってとても大きな出来事だった。

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  • 高尾

    映画と演劇を観ることが多いです。 現在はラジオドラマ、テレビドラマ、映画のシナリオを書いていきたいと思っています。 よろしくお願いします。 witter→@Square_Zappa 批評家養成ギブス三期生 / 2016年度戯曲セミナー卒業生